インクルーシブ・メディア Encouraging Inclusivity in Media -メディアによる包摂と排除-

ノート|05

社会的弱者に寄り添うもう一つのジャーナリズム ~原爆小頭症を支え合うきのこ会の歩みから~

土屋 祐子

  1. 1
  2. 2
  3. 3

1. はじめに:被爆者の声

2017年のノーベル平和賞はICAN(核兵器廃絶国際キャンペーン)が受賞しました。授賞式では広島で被爆したサーロー節子氏が英語で講演を行い、「一人ひとりに名前があり、誰かに愛されていた」25万の被爆者の死を無駄にしてはいけないと訴え、原爆投下時の凄惨な経験を語りました。被爆当時者の鮮烈な記憶と言葉は重く、戦後70年以上が経った今も、私たちに核兵器の持つ破壊力と、それが何を引き起こすのかを彷彿とさせます。しかしながらこうした被爆者の声が多くの人に届くようになるのは容易なことではありませんでした。戦後すぐはGHQによる占領下で、被爆者の声は隠されました。時が経つ中でも差別の恐れや政治的争いを前に被爆者は声をあげることをためらい、また、あまりの酷い体験に自ずと口をつぐむ人も少なくなかったのです。特にもともと差別を受け社会での発言力を持たない社会的少数者の声が表に出るのは困難を極めます。本稿では母親の胎内で被爆し、知能や身体に障がいを持って生まれた「原爆小頭症」の人びとと、彼らの存在を明らかにし、支え続けてきたジャーナリストたちの歩みをふり返りつつ、社会的に弱い立場にある人たちのためのジャーナリズムのあり方について考えたいと思います。

2. ルポルタージュによる原爆小頭児の「発見」

原爆小頭症は、公式には「近距離早期胎内被爆症候群」と名付けられ、1967年に国から認定された原爆症の一つです。2017年12月の時点で広島を中心に全国で18名の方が存命しています。爆心地の近くにいた妊娠初期の母親の胎内で大量の放射線を浴びたために、知的障がいや身体障がいを伴って生まれた人びとです。彼らの存在が世の中に知られるようになったのは、1965年出版の『この世界の片隅で』に収められた「IN UTERO」が最初でした[1]。中国放送記者の秋信利彦氏(1935年~2010年)が風早晃治という筆名で書いた原爆小頭児のルポルタージュです。「子宮内で」という意味の「IN UTERO」は、米国によって広島に設置されたABCC(原爆障害調査委員会)の医師らの会話でよく出てきた言葉だったと記されています。取材当初は胎内被爆と原爆後遺症は関係がないとされていました。

ルポでは、一人の胎内被爆者の自殺をきっかけに、後遺症に関して疑問を持った秋信氏がABCCや市の原爆被害対策課に足を運び、一つひとつ調べていく過程が記述されています。取材を進める中で秋信氏は1940年代後半~50年代前半にかけてABCCのミラー医師やプルーマー医師らによって子宮内被爆児の調査が行われており、論文が存在していることを知りました。調査では1200メートル以内、妊娠初期段階という一定の条件の下での被爆が、胎児に小頭症や「精神遅滞」を起こすことを複数の症例により確認していたのです。それにも関わらず、米政府が胎内被爆児と発育障がいの関連を発表したのは1965年3月になってからでした。秋信氏は、長期に渡り援助も受けず放置されている小頭児たちが存在していることを知ります。

続いて秋信氏は、広島大学医学部の論文にあった胎内被爆児の調査資料を基に小頭児を探し始め、苦労の末7名の小頭児を見つけ出しました。ルポには家族や本人に話を聞きに行った時のやり取りも書かれています。施設に入っていたのは一人で、他はみな家族が育てていました。知能も身体も障がいの度合いは一様ではなかったのですが、頻繁にひきつけを起こす、鼻血が止まらない、言葉がままならない、先生の言うことを聞けず学校に行けなくなるなど、毎日を苦労しながら生きていました。多くの子どもたちはABCCに出向き調査に協力したものの、原爆の影響は否定された経験を持っています。親たちは他にも同じような境遇を持つ子どもがいるとは思っておらず、孤立し苦しんできました。秋信氏はさらに2家族を探し出し、親たちに話し合いの場を作ることをすすめ、その後、原爆小頭症の家族の会「きのこ会」が立ち上がりました[2]