加害者も匿名になるとき
相模原の事件で、知的障害を有する被害者が「自分たちとは違う人たち」と他者的に報道されたとの指摘を述べましたが、加害者についてはなおさら「自分たちと違う」点が強調されがちです。相模原事件でも、犯行を予告して措置入院になったにもかかわらず、わずか二週間で措置解除になっていたことが問題視されました。一方で、刑法39条が「心神喪失者の行為は罰しない。心神耗弱者の行為はその刑を減刑する」と定めており、それが認定されれば、無罪、減刑、あるいは不起訴処分となるために、その状況を批判する向きもあります。また、匿名報道に切り替えられるため、凄惨な事件の被害者の側が実名で報道され、加害者が匿名で報道されることになり、なぜ加害者のほうが守られなければならないのかと批判が上がりがちです。同様のことは少年犯罪などにおいても議論を巻き起こしてきました。また、容疑者を匿名で報ずることは、例えば誤認逮捕でもそれを証明する人間が名乗り出ることができないという事態を現実化させる恐れがあります。メディアが実名報道するからこそ、逮捕された人間が現場にいなかったことを証明する人物が名乗り出る可能性もあるでしょう(内藤、2007:108-109)。
しかし病気のために幻覚妄想状態に陥ったときに犯した犯罪は、例えば自分が脳障害を起こしているときに起こした交通事故と似た状況だと言えます。あるいは妄想が常態化していて、自分の犯したことの重大性がわからないまま罰したとしても、当人の再犯防止にはならないでしょうし、妄想状態にある他の人の犯罪抑止にもつながらないように思われます。ゆえに責任を問えないとの考え方がその根底にあります。被害者や家族の心情を理由に罰を求める意見もありますが、近代の刑罰は残念ながら被害者のためにあるわけではなく、また正義感から私刑を叫ぶ風潮も危険です。
無罪になった加害者をどう扱うべきか。2005年には、大阪教育大学附属池田小学校の児童殺傷事件を機に、心神喪失者医療観察法が制定され、治療への流れが重視されるようになってきました。その成果を強調する論考もあれば、新たな隔離政策に過ぎないと批判[6]する向きもあります。そうした批判的な視座からは、世界中で最も多くの精神医療病床を抱える日本の閉ざされた状況を批判し[7]、地域社会における保護観察をより評価する意見もあるようです。精神障害者の犯罪率は1.8%と平均より低いのですが[8]、放火や殺人において割合が高くなってしまうこと、また印象に残りやすいという問題もあり、社会から隔離しておくべきとの論調も根強くあります。また精神障害といってもさまざまであるのに、一括りにして、「通常の」生活を送る「われわれ」とは異なるとみなし、身近なところから排除しようとする傾向も伺えます。
精神障害者などの当事者団体は、注目すべきは容疑者の措置入院歴ではなく、むしろ加害者が傾倒していた優生思想であると訴えています[9]。ドイツのホロコーストでは、ユダヤ人を虐殺する前に、役に立たない人間として治癒できない患者や障害者の命が奪われました[10]。 事件が起きるまでには、たった一つだけでなく、簡単には因果が証明できない大小さまざまな要因が絡み合っているはずですが、人間はわかりやすい原因と結果とを結びつけて、物語として理解したがる傾向があります。毎日新聞の野沢和弘氏(2008)は、マスメディアの事件報道を以下のように自己批判しています。
警察が日常的に行っている記者発表を見ると、ある犯罪で検挙した被疑者の動機はきまって「金欲しさ」か「ささいなことにカッとなり」か「怨恨」か「わいせつ目的」である。一人の人間が警察から追われるような反社会的な行為に及ぶときには、極めて複雑な心理的葛藤や混乱状態が心的現象となっているはずである。犯罪を起こす人間の複雑怪奇な心的現象は「ささいなことにカッとなり」などに代表される貧困な警察語彙では説明できるわけがない。…メディアはどうなのだろうか。もとよりメディアは犯罪者を検挙するのが仕事ではなく、犯罪を生み出す社会の病理や、犯罪者の心の中に沈潜するものに眼差しを向け、複雑で混沌とした人間と社会の存在を洞察して、その犯罪が物語る本質を世に問うことが、世間から付託された本来の仕事と言うべきかもしれない(野沢、2008:199)。
先にも述べたように、犯罪に至るまでには複雑な過程があるにも関わらず、紙面や時間に制限を受けるメディアはその過程を十分に追えていません。前出の野沢氏は、風邪による体調不良が犯罪の引き金を引くことがないわけではないのに、犯罪の原因にされることはほとんどなく、一方で事件を起こすことがレアな障害であっても、精神障害、発達障害はよくその理由に挙げられると指摘しています。
もう一つ、今回の事件でそれもとともに注目されたのが、犯人が障害者を「役に立たない」という理由であやめたことでした。私たちの生活の中にも「役に立つ/立たない」「迷惑をかける/かけない」という善悪の基準は当たり前に根付いています。事件を受けて、多くの論者から、私たちは疑いようがないと信じている「役に立つ」「迷惑をかけない」という倫理観は生産効率主義とも結びつき、ひいては優生思想につながりかねないことが指摘されました。人間は役に立たなくても迷惑をかけても誰もがかけがえのない命なのであり、それらを包摂するのが「私たち」の社会なのだと認識しない限り、同様の悲劇が続くのではないかという告発です。精神科医の斎藤環氏は、再犯の恐れが完璧になくなるまで精神障害者を隔離せよという主張は、障害者に生きる価値はないとする容疑者の主張とほとんど重なり合うものだとして厳しく批判しています。いかに不快であっても、容疑者のような存在を社会の中に包摂し、地域において共存をはかるほかない(斎藤、2016:44、55)というのです。
一方、精神科医の松本俊彦氏は、専門家の立場から、思想なのか妄想なのかを明らかに判定することはきわめて困難であると論じていますし(松本、2016)、日本精神神経学会の法委員会も、精神医療が保安の道具として強化されることに対して危惧を表明しています[11]。
犯罪を犯した人びとをも包摂する社会。多くの人にとってはなかなか受け入れがたい感覚かもしれません。しかし現実に、加害者たちも、刑期を終えれば、私たちのまわりでまた暮らし始めます。そのときまた偏見や差別によって彼らを排除し、社会的なつながりを断てば、新たな犯罪へと手を染めることにならないとも限りません。たいへん難しいことですが、共存することが不快である人物に対しても、「われわれ=私たち」としてそこに至った理由や背景を丁寧に検討し、できるだけ排除をさけるかたちで対策を講じていく度量が求められているのではないでしょうか。