障害者のイメージとメディア
障害の社会モデル/医療モデル
もうひとつの批判が、先に述べたような「感動ポルノ」に代表される、障害者の描かれ方に対する不満です。ここで、最近障害学や福祉の領域で注目されるようになっている、障害の「医療モデル」と「社会モデル」という考え方について簡単に説明しておきましょう。
従来、障害者とは、医学的に診断できる「障害」を身体、知的に持ち、その障害を何らかのかたちで治療し、本人あるいは家族が何らかのかたちでその不都合を補うことで日常生活が送れる人びとという認識でした。この考え方によれば、障害に対して責任を負うのは、障害を抱えた本人や家族であり、(実際には完治が難しいものの)治療に責任を負う医療ということになりがちです。一方、最近障害学の領域で主流となっている「社会モデル」は、「障害」が個人の機能障害によって生じていると考えるのではなく、むしろ社会の側が、少数派の心身の特徴を無視して設計されていることこそが問題なのだとして、障害を社会の側に存在するものと考え、多様性を受け入れる改革を目指します。そして社会モデルをもう少し敷衍すると、バリアフリーなど物理的環境を整えることだけでなく、私たちの心の中にある偏見や差別をなくしていくこともその射程に入るでしょう。そのとき、人びとの認識を形づくっていく日々のメディアのありようが問題として浮上します。
メディアは、本人が望むと望まざるとに関わらず、「知らない誰かを目前まで他者として連れて(坂田、2007)」きます。坂田邦子氏は、そうしてメディアによって個人の前に連れて来られた表象としての他者に対して、ネット社会では経験の次元での理解を欠くため、差異ばかりが再生産されてしまい、あらゆる「異なる」文化に属する人たちが「私たちには関係がない」として文化的他者化してしまう危険性を指摘しています。興味や関心がたこつぼ化したネット社会において、これまでカルチュラル・スタディーズが批判してきた限られたメディアの送り手の責任だけではなく、自ら情報を発信することも可能な私たち自身の問題になってきています。しかしそもそも現実の関係を持つことが少ない他者のことには関心を抱きづらいというトートロジーも存在しています。
身体障害者のステレオタイプ
日本では、多くの場合、障害のある子どもたちは多くが養護学校に通い、卒業してからも作業所などで生活するため、日常で彼らと交流する機会はほとんどありません。ステラ・ヤングが「感動ポルノ」の説明でも述べているように、車椅子に乗った障害者がその大変さや努力を学校で講演するという経験以上のことを、私たちの多くは知りません。だとすれば、知らないものは、教科書や本、テレビやネット等のメディアによって知ることがほとんどですから、私たちが抱く認識はどうしてもその伝えられ方に影響されがちです。
そもそも考えてみれば、テレビのなかに障害者が出てくることはきわめて稀です。世界保健機構(WHO)の発表によれば、全人口の15%に、精神障害や発達障害を含む何らかの障害がある[2]とのことですが、全米俳優組合(Screen Actors Guild of America、2005)の調査[3]によれば、テレビの中に出てくる人物の中で、視覚障害や聴覚障害含め、障害が確認できるのはたった2%、しかもセリフや言葉を発する人物となると全体の0.5%。テレビのなかでも彼らは「見えない」存在です。日本でも、状況は大して変わらないのではないかと思われます。24時間テレビの初代プロデューサーが障害を持つひとを「見えないところに追いやっている」とした表現は、今もあながち的外れではないといえるでしょうし、逆に言えば、私たちと同じ社会に暮らす障害者の存在を可視化するという意味で、チャリティ番組は私たちの認識に彼らの存在を知らせる点において意義があるといえるのではないでしょうか。
しかし今、その描かれ方は見直しを迫られているようです。
そもそも、障害者はメディアのなかでどのように描かれてきたのでしょうか。そこにはステレオタイプも存在します。ネルソンは、障害者に対して、1)(チャリティ番組に描かれているような)弱者や犠牲者、2)(パラリンピック等に代表される)天才的/ヒーロー、3)(障害者によって引き起こされる事件や事故に基づく)暴力的な脅威、困難、4)障害のために状況を変えづらく依存的、5)ケアされる運命にあり、お荷物になる、6)幸せな生涯が送れないというステレオタイプ的な描かれ方が繰り返されてきたと指摘しています(Nelson、2003:175-180)。また、カナダのニュースにおける内容分析では、彼らを描き出すときに、「状況に苦しんでいる」「障害を克服する」「車椅子に縛り付けられている」という用語を用いることで、彼/女らを犠牲者として描いたり(victimize)、医療の問題として描き出したり(medicalize)する傾向があると指摘されており、そのストーリーもすばらしい業績に注目したり、ヒーロー化して描かれたりする場合が多いと報告されています(CAB、2005)。
日本でも、社会学者の好井裕明氏が、メディアにおける障害者表象はあくまでもステレオタイプ化されたものに過ぎないとし、その表象/イメージを、1)同情、憐憫の対象としての描き方、2)困難を克服した超越する存在の象徴、そしてその中間に、3)福祉サービスを必要とする困難を抱えた一般的な障害者という3つのタイプがあることを指摘しています(好井、2011:152-153)。
今から100年前、まだラジオもテレビもなかった時代、ジャーナリストであり批評家であったアメリカのウォルター・リップマンは、私たちの環境(社会)に対する認識は、メディアによって作られるのであり、私たちはそうして作られた環境のイメージを基準にして行動していると述べました。そして膨大な情報をわかりやすく理解するうえで、ステレオタイプにも一定の機能があるのだと述べています(リップマン、1922)。メディア制作者も、障害者のすべてを知っているわけでなく、紙面や時間の制限があるなかですべてを表現することはできず、そのなかで読者や視聴者にインパクトのある内容にしようとすると、どうしても現実とはかけ離れたステレオタイプを増強させてしまいがちです。そして、そうしたステレオタイプに沿う形で登場人物を決めていく。つまり、登場人物は究極的には憐憫の対象やヒーローといった「記号」に過ぎなくなっていきます。そうした状況は、個人としてその人を認めるのとはほど遠くなりがちで、こちらが見たいように見るポルノと変わらないとステラ・ヤングは看破したのでしょう。障害者といっても千差万別で、それぞれ個性を持っている上にたまたま障害があったというわけですから、ステレオタイプに沿わない人がいるのもごくごくあたりまえのはずです。
ステレオタイプを克服するには
障害者に対するネガティブなステレオタイプを是正していくことも、メディア・コミュニケーションを通してできる重要な取り組みです。海外に目を向ければ、北欧の福祉国家スウェーデンの公共放送では、子どものころから社会的少数派、とりわけ障害者になじんでもらうために、子ども番組の司会者や登場人物の中に、明らかな障害を持っている人物を相当の割合で積極的に登用しているといいます(Alatalo&Alatalo、2014)。あるいはイギリスやカナダでは、メディアにおける社会的弱者など、多様性の描写に関してのガイドラインがあります。Byrd and Elliott(1984)は、視聴者の偏見を取り除く上で、障害者を描いた教育的な映像は、障害者とコミュニケーションしていくうえで必要となる情報を補い、不安を減らす点で有効と論じています。日本においてもバリバラのような例はありますが、まだ画面に登場する回数自体があまり多くないように思われます。
また昨今では、社会保障が切り捨てられていくと、その恩恵にあずかれないと不安に陥る人びとのなかに「弱者くらべ」とでも言うべき状況が生まれてしまい、自分よりも保障の厚い障害者を「役に立たない」などと攻撃したり、得ている手当やサービスを不当だとするヘイトスピーチが深刻化しがちです。こうした状況が起こる背景には、情報伝達や憐憫の情だけでは障害者への理解が深まらないという問題が横たわっているようです。人権やいのちについての単純化できない議論や深みのある対話も必要になります。そしておそらく、さまざまな障害者と交流し、まわりの人びとも含め、実際に話をしてみることが、もしかすると一番大事なことかもしれません。きっと、障害者はそれほどかわいそうでも、ヒーローでもなく、私たちとさほど変わらないと感じるのではないでしょうか。バリバラが嫌いな障害者や、24時間テレビが好きな障害者もいると気づくことでしょう。実際、さまざまな施設で24時間テレビやバリバラについての意見を聴きましたが、好みは本当に千差万別です。啓発活動になるという点で24時間テレビを評価する人も、バリバラをはしゃぎ過ぎだとか大阪っぽくてついていけないとか批判する障害者もいます。