インクルーシブ・メディア Encouraging Inclusivity in Media -メディアによる包摂と排除-

ノート|04

監視か、見守りか 認知症の人を見守るメディアとは 安心して外出(徘徊)できる地域社会をつくるために

松浦 さと子

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不安を引き起こした「徘徊(外出)」事故

2007年12月、認知症の夫(当時91)は介護中の妻(当時85)がうとうととまどろんだわずかな間に外出し行方不明になりました。その後、夫は鉄道の線路に入り、列車にはねられ亡くなりました。要介護度は5段階中、重い方から2番めの「4」だったそうですが、事故後、列車の遅れを理由に、遺族は鉄道会社から高額の賠償金を請求され、全国の認知症高齢者を介護する家族たちに衝撃を与えました。

認知症による徘徊に起因する事故の賠償責任を家族が負うべきかどうか、裁判の行方が注目されました。1審は720万円全額賠償を命じる遺族の全面敗訴、2審判決は賠償額を約360万円としました。新聞記事によれば、これらの判決を受け、親を安全な場所で守り、事故を避けるため、途方に暮れた家族も多かったようで、急いで高齢者施設に入居させた家族もいたそうです。

しかし2016年3月、最高裁は、この介護家族の責任を認めないという「画期的」な判決を出し、介護家族はひとまず胸をなでおろしました。重い責任に一睡もできないのではないかと不安を抱えていたからです。とはいえ、家族の「介護の実態などによっては、賠償責任を負う」という最高裁判断だったことから、高齢者の徘徊への不安はいまだ拭い去られることはありません。判決後のNHK時論公論[1]、団塊の世代が75歳以上になる2025年には、認知症の高齢者はおよそ5人に1人、600万人を超えると伝え、被害者救済の仕組みと、地域で見守る体制づくりを呼びかけました。なお、その後厚生労働省の2015年発表では、2025年には認知症患者数が700万人を超えると予想しています。

ところで近年では、認知症の方々は、目的があって外出して帰り道がわからなくなっているだけなのであって「徘徊」ではないという当事者の方々からの主張が、活字に反映されるようになりました。本稿もそれに倣いつつ、当時の表現や状況を反映させるところには「徘徊(外出)」を用います。

「日本一安全な町」を目指した見守りカメラ

その後、徘徊(外出)高齢者を危険な場所から回避させ、行方不明になることを防ぐために、位置情報を把握するモバイルセキュリティシステムの開発が進み、高齢者に携帯させるよう家族に勧めています。

警備会社やガス会社など、さまざまな企業[2]が見守りサービスを提供し始めています。こうした機器は、個人が契約して身につけるものが多く、自衛システムといえるかもしれません。

しかし最近耳にするのは、街頭に設置される「見守りカメラ」です。なかでも大掛かりな取組として話題を集めたのは兵庫県伊丹市の事例で「日本一安全なまち」を誇るのだそうです。道路や公園などに、小型無線受信器(ビーコン)を取り付けた防犯カメラ「安全・安心見守りカメラ」[3]1000台を設置するという規模。伊丹市は、開発運営にあたる阪急阪神ホールディングス株式会社と平成27(2015)年11月9日に協定を結び、犯罪の抑止効果を高め、小学校に通う子どもや徘徊する認知症高齢者等を見守る「まちなかミマモルメ」のサービスを2016(平成28)年3月から始めました。導入した藤原保幸市長は, 就任以来「安全安心は市政の一丁目一番地」が信条。「住み続けたいまち伊丹」の実現を図るため、小学校1年生や認知症高齢者、障がい者(児)については、初期登録料及び月額使用料を市が負担し、無料で利用できるようにしました。また、「監視」の不快感を与えないように、説明会や設置場所検討会を開催するなど、システム導入は、地域住民の意見を聞きながら[4]進められました。パブリックコメントが伊丹市のサイトに掲載されていますが、全市から寄せられた3件の意見は「大いに進めていただきたい」「犯罪抑止や事故防止に貢献しありがたい」「意義ある税金の使い方に賛成」、また地域懇談会では97.8%の市民が設置に賛成と答え, いずれもミマモルメを積極的に受け入れています。パブリックコメントも「不法投棄がある」「バイクの騒音がひどい」「事故が多い」などの理由から設置場所をさらに希望するものが中心です。平成28年8月には、この安全・安心見守りカメラの画像が決め手となり、女子中学生に対する強制わいせつと暴行の容疑者の逮捕につながったことが報告されています。

このように見ると, このシステムに高齢者の見守りを期待する意見は見られず、もっぱら犯罪抑止の目的に叶うかどうかを心配する声が目立ちます。また、こどもやお年寄りを見守るためには、たとえ1000台のカメラでも心もとないと感じる住民もいるかもしれません。伊丹市は兵庫県にあり西宮市、宝塚市、川西市と隣接、また大阪府の尼崎市、池田市、豊中市にも接しています。JR福知山線の猪名寺、伊丹、北伊丹、阪急伊丹線の伊丹、新伊丹、稲野の駅が市内にあり、路線バスの経路も縦横無尽です。お年寄りも誘拐犯も公共交通機関に乗ってしまえば、すぐカメラのない市外に出てしまえるのです。

カメラは、認知症のお年寄りを守ってくれるでしょうか。伊丹市長も「ハード整備だけでは万全ではない」「地域の見守りといったソフトと(これらカメラの)ハードが連携することで、今後も更なる安全・安心のまちの実現につなげたい」とコメントしていることから、決してカメラだけに依存するということではないようです。

カメラが街中にある暮らし プライバシーと肖像権 監視と見守り

1000台の見守りカメラは、「安心・安全」のために、防犯、防災、徘徊高齢者の見守り、子どもや女性を犯罪から守るなど複数の期待を背負っています。しかし一方で、肖像権やプライバシーの保護の尊重は人権にもかかわる重大事であり、それらについて法は未整備です。伊丹市では、画像データを法令や条例に基づく場合以外に目的外使用しないこと、1週間程度で上書き消去され、必要がない場合は誰も見ないこと、責任者を設置し適正に管理し、不正利用等違反した場合は処罰されること、画像データの提供状況を公開することなどを検討し、条例[5]を平成27(2015)年制定、施行しました。

このように、事前にカメラ導入について条例を検討したのは、やはり民主主義社会には、権力的な見張り、「監視」社会への警戒があるからではないでしょうか。

カメラがあることによる「監視」と「見守り」は、私たちの自治を考えるうえで、大きなジレンマとなっています。

監視なのか、見守りなのか

トランプ政権誕生後に英米で注目を集めているジョージ・オーウェルの『1984年』(1949)。ここには支配層のエリートが徹底的な監視体制で国民をコントロールする社会が想定されているといいます。町なかにカメラ1000台と聞いて、この「独裁者」による監視を思い起こしもします。世界有数の監視カメラ大国、英国国内には監視カメラが400-600万台設置され、市民は1日にカメラで撮影される回数が平均300回[6]との数字も指摘されています。多くのカメラが市中にあることで犯人逮捕につながった事件も報じられました。2歳児を誘拐殺害した犯人が10歳の子供2人であったことがカメラによって明らかになった事件は日本でも知られています。顔認証、生体認証の技術も普及する昨今、また、インターネットに接続されれば、あらゆる個人情報が収集されることにも敏感になってしまいます。一方で、伊丹市の例から見ても、私たちは犯罪抑止のために進んで監視の道具であるカメラを増やそうとしているともいえるのです。

それでは監視についてもう少し考えて見ましょう。監獄というと、常に看守に監視され、何か良からぬことがあれば肉体的な刑罰を受けるというイメージがあるかもしれません。ジェレミー・ベンサムは監獄の設計において『パノプティコン』一望監視装置を構想しました。この建物では、看守は建物の上方から収容者を眺めることができ、収容者の側からは互いの姿や看守を見ることはできません。収容者は看守がいるかどうかを確認できないため、恒常的に誰かに監視されているという意識を持って行動するようになります。ベンサムは、収容者を教育更正するためのシステムとしてこの装置を構想したということですが、のちにミシェル・フーコーは『監獄の誕生 監視と処罰』(1975)で、この施設において、いつ誰に見られているのかわからないという状況によって、監視されている囚人たちが自らを律していくことを例に、管理統制された社会のシステムとは、私たちが恐れるような暴力や抑圧などの形ではなく、人々に監視されていることを意識させることで規律をもたらす権力のありかたを論じたといいます。

『監視社会』(2002)を著したディヴィッド・ライアンは、現代における監視を情報社会との関わりで捉えています。彼は監視の行為を個人データの収集・保存・処理・流通にまで広げて捉えており、クレジットカードなどの例から分かるように、情報社会の進展は、テクノロジーによる日常生活のモニタリングとともに発展してきたと論じます。そして、ベンサムの「パノプティコン」構想に端を発する「監視」に含まれる「管理(コントロール)」と「配慮(ケア)」の両義性について考えます。「監視」には、リスク管理や子どもの見守り(訳書には「見張り」とある)なども含まれているというのです。

またのちにジグムント・バウマンとの共著『私たちが、すすんで監視し、監視される、この世界について リキッド・サーベイランスをめぐる7章』(2012)では、SNSでプライバシーを私たちが自らすすんで提供している状態で、監視のシステムがより複雑になっていることを指摘しています。現代の監視社会を「液状化」した流動的なものと評し、これまで近代の抵抗運動が想定していた暴力的な権力による監視のみではなく、リスクや安全性との関連から、カメラの見守りが倫理的な配慮にもつながる連帯の可能性にも触れています。個人の責任が問われ、一層の排除につながる危険をも指摘しつつ。

アメリカが世界中の通信データを傍受し人々を「監視」しているというエドワード・スノーデンの警告に無関心で良いとは思えません。監視のカメラが常に権力者につながることへの無防備さを私たちに問います。その一方で、現代の情報社会には、提供する個人情報と引き換えに得る利便に警戒心は及びつつも、「監視」の制御の新しい民主主義的なあり方についても考える必要がありそうです。

そして確かに、認知症700万人時代を迎えるとき、住民相互の見守りだけでは「目」が足りないように思えます。なぜなら人々は、スマートフォンの画面ばかりを注視しているからです。