インクルーシブ・メディア Encouraging Inclusivity in Media -メディアによる包摂と排除-

はじめに

本サイトは、社会的排除/包摂のプロセスに、メディア・コミュニケーションがいかに関わるかを考えていくための6つのノートです。 社会的包摂とは、従来、貧困という課題、すなわち所得に注目し、個人や世帯にその原因を帰結させようとしてきたのに対し、そうした状況が、雇用や財産剥奪、教育の機会や社会的なつながりからの排除といった社会的排除状況に陥ったことによって生じていると考えます。ですから、社会的なつながりの断絶がいかに生じ、どのように影響するのかといった社会的な環境に注目し、困難や貧困がこうした社会的排除プロセスの帰結であるとみなすことで、社会的な対策を提示することを可能にします。

人びとの貧困や社会からの排除には、メディアも少なからず影響を与えていることが想定できます。多くの人々に影響を与えるマス・メディアと、関心のあること、好みのものごとにしかアプローチしづらいソーシャル・メディアは、社会的排除・包摂という概念の枠組で捉えたとき、人びとにどういう影響を与えているのでしょうか。メディアは、人びとをどのようなコミュニティに包摂し、また誰をどこから排除しているのでしょうか。本サイトでは、社会的包摂/排除という概念を枠組に用いながら、そのプロセスにメディアがどのように関わるのかを描き出すとともに、6つのエピソードを元に、各地で展開されている小さなメディア実践をその構図に位置づけてみたいと考えています。

メディアと社会的包摂・排除 ―3つの排除から考える

インフラからの排除

メディアと社会的包摂・排除について考えるとき、主に3つの視点が想定されます。一つ目は、メディア・インフラからの排除という視点です。ここには2つの位相があります。メディア・インフラにアクセスできない、メディアを持つことができないために、そこでの情報伝達やコミュニケーションから排除されるという位相と、それがあること自体を知らされていなかったり、それを使いこなすスキルが身についていなかったりするという位相です。この視点は、放送電波の普及計画や、市町村単位での図書館の設置など、これまでは比較的政治的にも重視されてきたといえます。インターネットが主要メディアとなった21世紀になってからも、「デジタル・デバイド」など、ネットワークからの排除が問題視され、官民あげた対策が行われてきたと言えます。

このように、メディア・インフラへのアクセスという視点は、個人が他の個人や集団といかにつながりうるのかに直結しており、また広義には、どのようにメディアを介して情報を獲得し、社会の諸制度に参加できるのかということに直結します。

メディア表象からの排除

一方、システムに人びとを包摂したとしても、周縁化や排除が生まれます。これまで、新聞やテレビといったマス・メディアは、多様な人びとをひとつの大きな情報空間へと包摂してきました。ニュースや、スポーツや音楽などの娯楽は、異なる立場や状況にある人びとに共通の話題を創り出し、同様の関心を人びとから引き出してきました。

W.リップマンは、人びとは現実の環境よりも、むしろメディアによって提示された情報を環境だと信じて行動していると述べました(疑似環境)。よく引かれるのが、犯罪率です。メディアで日々伝えられるせいか、その割合は現実よりも高く見積もられるとされます。メディアで提示される世界は、あくまでもメディアの送り手たちが構築し、描き出した世界であって、現実の世界とはズレがあります。また人は「定義してから見る」生き物であり、そこには人種や性別、職業などのステレオタイプも影響しています。

同様に「描かれない」ことで存在が無視されてしまうこともあります。たとえば日本では、難民の情報がほとんど入ってこないために、その存在を感じることが稀であるように、イメージ(表象)の空白は認識の空白とも結びついているといえます。逆に言えば、メディアで描きだされない人たちは、その存在をめぐって、人びとの認識から排除されているといえるのではないでしょうか。

メディア・コミュニティからの排除

そもそも私たちが「日本人」と感じるのは、毎日日本語で、日本という国に関するニュースや話題、天気予報などを目にしていることが少なからず影響しているのではないでしょうか。アンダーソンは、各言語に基づく出版が発展することによって、国民国家という「想像の共同体」が生み出されたと論じましたが、国家だけでなく、大小さまざまな共同体がメディア・コミュニケーションを介して「想像」されてきました。今も、ファン・コミュニティや趣味のコミュニティをはじめ、さまざまなソーシャルメディアを介してコミュニティが生成されています。

コミュニティという概念は語り手によって多種多様に用いられていますが、多くの場合、精神的な安心と帰属意識を得られるとして好意的に捉えられてきました。コーエンは、コミュニティという用語が「類似と差異を同時に表す」概念である(コーエン、1985=2005:2)点に注目しておく必要があると述べています。彼は、そこに共通性による凝集というベクトルとともに、差異を表現する境界を見ていて、むしろコミュニティとは、その成員が境界に付与するシンボル (同上:8) なのだと述べています。円を描くためには線を引かねばならないように、コミュニティを形成することは、その外部を生み出してしまうというわけです。つまり、メディア・コミュニティをめぐる議論は、そのままメディアと社会的包摂/排除の議論と結び付くといえます。何かを内に包摂しようとすれば、意識的であれ、無意識であれ、そこに排除するものが生み出されうるという点には注意しておく必要がありそうです。

メディアを通じた社会参加と包摂 ―インクルーシブ・メディアに向けて

メディアと包摂に関して、最後に触れておきたい視座は、メディアを用いて社会参加を試みたり、排除されている人たちを包摂しようとする実践です。

現在、ヨーロッパを中心に、包摂と排除の視座は、政策だけでなく、そこから教育や文化の問題へと展開されています。文化的活動への参加が人びとに自信を与え、社会に参加する道筋を学び、ひいては就業機会の獲得につながるとして、周縁化されがちな人びとの社会的包摂を文化的側面から促進しようとする実践や研究も展開されつつあります 。これらの取り組みは、障害学の領域で見られる「医学モデル」から「社会モデル」への移行とも重なりを持つと言えます。医学モデルとは、障害を個体の心身の中に宿ると捉えますが、社会モデルとは、少数派の特徴を無視して設計/運用されている社会環境の側にこそ障害が宿っていると考えます。障害者が何かをできないのは、個人の機能障害というよりも、それを不可能とする、生産能力重視の社会が問題なのであり、ゆえにその変革を志向していくという視座です。

こうした視点に立ち、意図的であるかそうでないかはおいておくとして、多様な人びとが社会に参画できるような試みを展開するメディアを「インクルーシブ・メディア」とさしあたり名づけ、その現状を描き出してみようというのが本サイトの目的です。包摂が排除を生み出しうるという点を謙虚に受け止め、多層的で多様な包摂を試みる小さなメディア実践を、6つのエピソードとともに包摂と排除という枠組を用いながら描いてみたいと思います。

参考文献

  • リップマン、W.『世論(上・下)』(掛川トミ子訳) 岩波文庫 1922=1987.
  • アンダーソン、B. 『想像の共同体—ナショナリズムの起源と流行』白石隆・白石さや訳NTT出版 1983=1997.
  • コーエン、A.P.『コミュニティは創られる』吉瀬雄一訳 八千代出版 1985=2005.
  • 岩田正美『社会的排除−参加の欠如、不確かな帰属』有斐閣 2008.
  • 柴田邦臣「障害者の福祉と社会参加に関するコミュニティ・社会関係資本・ICT」大妻女子大学紀要社会情報学研究 17. Pp.81-90、2008.
  • 舟木紳介・藤田正一「障害のある人と地域社会のつながりの構築をめざしたデジタルメディア実践とソーシャルワーク」アートミーツケア Vol.7. pp.19-36、2016.
  • 内藤直樹・山北輝裕『社会的包摂 排除の社会学』昭和堂 2014.