インクルーシブ・メディア Encouraging Inclusivity in Media -メディアによる包摂と排除-

ノート|03

「認知症」の「価値」を見出す メディアに描かれた存在から、記録し表現する主体へ

松浦 さと子

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『恍惚の人』 ベストセラーが広めた高齢化社会イメージ

1972年、有吉佐和子さんの小説『恍惚の人』が発表されました。文学作品としてベストセラーとなり、翌年に森繁久彌さん主演で映画化、その後3度にわたりテレビドラマ化もされています。まだ高齢化社会がそれほど深刻に捉えられていなかった時代に、社会問題として提示された「認知症」、当時は「痴呆」と言っていたころです。映画やドラマでは、奇行、幻覚、徘徊をはじめ、高齢者とその家族との同居のイメージが深刻なものに描かれました。そこには憂鬱な介護の暮らしと、高齢者を抱えた家族が未来を恐れる姿がありました。その後も「認知症」のイメージは暗いものになりがちで、介護は社会から隠されるようにもなりました。

それはメディアが作り出した認知症への偏見ではないか、との問いかけが、2017年夏、発表されました。これを発表したのは上田諭さん。福祉を学んだ後、新聞記者となり、その後医学部に入学し精神科医になった人です。彼のブログによると『恍惚の人』における「認知症の人の描き方は一方的で、認知症本人の側からの視点はほとんどなかった。その偏った認知症観はいまもなお、社会やメディア、医療やケアの場にはっきり残る」と指摘しています。

上田さんは「これは著者の責ではない」と言い切ります。社会全体が、高齢者の尊厳を認めようとか、認知症の人の気持ちを理解しようという意識がない時代だった」と振り返り、「認知症の『人』の心情や人格は注目されず、困った行動をする認知症という病気と周囲で悩む家族だけに焦点が当てられていた」頃とは明らかに違ってきている近年の状況を示し、私たちは偏見に因われていないかと、問いかけました[1]。上田さんは、私たちにマス・メディアから刷り込まれ偏った認知症観を根本から変える必要があると述べたのです。その指摘通り認知症のイメージが大きく変わってきたことを本稿では確かめていきます。

また近年の「認知症」を扱った書籍は当事者が実名で出ていると指摘するのは、福祉ジャーナリストの浅川澄一さん[2]。当事者が自分の心のうちを語り始めた出版の傾向を読み解いています。

この46年の間に社会を変えてきた当事者の人々にメディアはどのように寄り添ってきたのか、そして当事者がどのように主体的にメディアに登場してきたのかを振り返ります。

メディアを通して家族・家庭を理解してきた

私たちはかつて築き上げたい家庭のあり方を、メディアを通して学んでいました。家族のあるべき姿をドラマなどを通して受け取ってきたのです。私たちはメディアが描く現代家族のモデルを発見し、家族の将来を思い描きました。1950~60年代のアメリカのホームドラマ、1959年のご成婚前後のミッチー・ブーム、1961年からNHKが始めた朝の連続テレビ小説など。身分の差があろうとも、貧しくとも、愛情に溢れた努力を積めば築ける日本の家族の理想像、家族の文化が継承されていたのです。そしてそこでは、かつて厳格であった家族の規範や家族の様式も、テレビドラマによって次第にその枠組が緩和し拡大しました。家族に新しい困難が生じても、ドラマの登場人物である家族メンバーの意思と努力によって克服され、メディアのオーディエンスである家族もそれらを理解し、受け入れようとしてきました。「婚前交渉」、「未婚の母」、「シングルマザー、シングルファザー」、「複合家族」、「別姓夫婦」、いずれも新しい家族の有り様が現れるたびに、ドラマの中で描かれながら人々に受容され、多様なあり方のひとつとして受け入れられてきたかのように見えます。そして「LGBT」、「同性婚」のテーマも、家族のあり方を再定義する過程にあるように思われます。あるいは「児童虐待問題」、「家庭内暴力問題」などは、メディアに描かれることで、論じられ、批判され、問題視され、解決を目指されてきたのでした。しかし、リン・スピーゲル(2000)が「家庭性の封じ込め」と論じたように、あらゆる種類の社会問題が、社会的な問題としてではなく、プライベートな領域で解決すべき問題として封じ込められていったことは、「介護」の世界にも当てはまりました。

このように、新聞・ラジオ・テレビに人々が接触する中心的な場がかつては家庭であり、その家庭を描き規範を成立させてきたのがマスメディアでした。だからこそ、メディア研究は家庭から目を離せなかったのでした。しかし『恍惚の人』が「痴呆(当時)」を現代社会のコストやリスクとして描き、家庭を構成する家族にはその高齢化社会のコストを予想することも、克服することも叶わないかのように描いてしまったために、家族はうろたえるようになりました。努力では防げない、そして誰かにその深刻な事態が襲いかかるのだと。

それゆえに、マス・メディアの「認知症」の描き方を注視する必要が出てきました。

かつて家族は自らを描かなかった

日本の社会ではメディアを通して自らを表現し語ることは勇気を伴うことでした。そもそもメディアを用いるという発想や、それを実現するメディアがありませんでした。ましてや、日本社会における認知症の高齢者を取りまく家族空間は、公共空間からは遠い私空間であり、そこで起きていることを対外的に表現、発信することは慎むべき規範であったようにも思われます。認知症を抱えた家族の営みを、恥ずかしいこと、見せるべきでないものとして、世間から隠してきたことが伺われます。外出して帰宅できなくなることも案じられ、次第に家のなかだけの存在にされてきたのかもしれません。

家族写真を撮ることも結婚式などハレの日の行事であり、認知症を抱えた家族にハレの日はないかのようでした。そもそも、介護に精一杯で、記録する、表現するというゆとりが家族にももちろん当事者にもなかったのです。

しかし、身近な問題として認知症のテーマで多くの人々が語り合うようになった背景には、パブリック・アクセス[3]という概念の普及があると考えられます。メディアの受け手に留まらず誰もが発信者となろうというものです。それを可能にしたのは、北米、ヨーロッパ、韓国など国際的に広がる実践と、メディア機器の低廉化、簡便化、ケーブルテレビやコミュニティ放送の進展、マスメディアで活躍するプロフェッショナルな人々のプロボノ化(ボランティア活動)の進展です。こうした環境や実践が広がったおかげで、家庭に隠れていた高齢者、介護の暮らしが日の当たるところに徐々に顕れるようになってきました。

何よりプロの介護職者の献身的な支えが、家族に心の余裕をもたらし、認知症を見つめる眼差しに優しさを取り戻させ、家族への愛しさを記憶にとどめることを促しました。そのゆとりから生まれた認知症を描く作品が、インターネットの普及によって、親しい人々に、地域社会に、国際的にも、共有されるようになっています。

家族の構成員に「認知症」が現れたとき、深刻な社会問題として記録することも、家族の営みをあたたかく見守ることも、ともに暮らすことを思い出とすることも、地域社会が共同体として受けとめてきた過程を共有することも、メディアを用いて可能になりました。メディアを通して「認知症」と向き合ってこられた家族が、少なくない作品を発表しています。

かつてテレビドラマが家族のモデルをつくってきたことは前述しました。が、さまざまな立場の人々が家族を描くようになれば、そのモデル像も多様なものになるに違いありません。さまざまな認知症を取りまく家族のあり方が多くの家族によって、またメディア関係者によって描かれるようになり、認知症のイメージや、つらい、暗い、怖いという介護観が変えられてきたのではないでしょうか。

そうした観点から、認知症を取り巻くメディアと公開された当事者の人々の献身を振り返ります。

2004年、「痴呆」から「認知症」に

国際アルツハイマー病協会は第一回国際会議を1985年、ベルギーのブリュッセルで開催しました。日本で初めて開催されたのは2004年10月15日から17日、国立京都国際会館が会場となった第20回会議です。テーマのDementia Care in an Aging Societyの和訳は「高齢化社会における痴呆ケア」、日本に開催をもたらした主催団体名は「社団法人呆け老人をかかえる家族の会(Alzheimer’s Association Japan)」。その頃まだ「認知症」という言葉はありませんでした。当時、痴呆に替わる言葉を募集した厚生労働省が「認知症」が最も適当であると報告した[4]のは、会議終了後の12月24日でした。

「痴呆」は侮蔑感を感じさせる表現で、高齢者の感情やプライドが傷つけられ、実態を表わしておらず、恐怖心や羞恥心を増幅していることなどが問題だと考えられていました。最終的に(1)「認知症」、(2)「認知障害」、(3)「もの忘れ症」、(4)「記憶症」、(5)「記憶障害」、(6)「アルツハイマー(症)の6つのなかから「認知症」が選ばれたのですが、もしもっと早く「痴呆」を「認知症」に変えていたら、認知症の高齢者は地域のなかにもっと早くから姿を表わしていたかもしれません。このころ、認知症患者数の先読みは全く甘いもので、2025年には約320万人と予測していましたが、2018年現在、2025年には700万人を超えるとの推計値が発表されています。65歳以上の高齢者のうち、5人に1人が認知症になるという予想から、事態の急速な進展と問題の深刻さに驚かされます。