相模原事件の衝撃
2016年7月に起きた相模原障害者殺傷事件は、障害者施設「津久井やまゆり園」で、入所者19名が殺害され、27名が負傷するという衝撃的な事件でした。この事件が世の中にショックを与えたのは、戦後、最も被害者の多い殺人事件と言われるその規模もさることながら、加害者がやまゆり園元男性職員(20代)であったことと、精神障害者の社会参加を制限すべきだという優生思想に基づく犯行であったことでした。彼が犯行前に衆議院議長や安倍首相宛に持参したとされる手紙には、障害者は抹殺すべきとする内容が記されており、施設側にも障害者の安楽死を容認する主張を述べていたため、施設側が警察に通報。その後、被疑者は措置入院となりました。反社会性パーソナリティ障害や妄想性障害などとの診断も受けており、逮捕後も診断は続いています。また事件後の尿検査からは大麻の使用[1]も明らかになりました。
このショッキングな事件そのものに対して、考えるべきことは後を絶ちませんが、ここでは事件のメディア表現を題材に、メディアはなぜ、誰をどのように包摂するべきなのか、考えてみようと思います。
被害者はなぜ匿名化されなければならなかったのか
やまゆり園に暮らしていたのは、知的障害を抱えていた人たちで、彼ら・彼女らはゴッフマンが論じるところのアサイラム空間(注:多数の類似の境遇にある個々人が、一緒に、相当期間にわたって包括社会から遮断されて、閉鎖的、形式的に管理された日常生活を送る居住と仕事の場所。ゴッフマン、1984:ⅴ)に生活していました。アサイラム空間は、社会の偏見や効率性などから守られる一方で、そこで暮らす人びとと私たちとが実際に出会うことはほとんどなく、またメディアにおいても、こうした施設の状況が平時に報道されることはきわめて稀です[2]。リップマンが指摘するように、メディアを媒介した情報が、環境や社会のイメージを創り上げるのだとしたら、メディアでもほとんど伝えられることのないこうした空間に暮らす人びとの存在は、私たちの「社会」をめぐる認識から排除されているといえるかもしれません。
話を戻すと、この事件では、神奈川県警が、被害者家族の希望として、被害者の名前を公開しないとする方針を早々に示したために、命を絶たれた人びとがどのような背景を持ち、どんな人で、どう生きていたのか、その情報はいっさい公表されませんでした[3]。新聞報道によれば、警察は「知的障害者の支援施設であり、遺族のプライバシーの保護等の必要性が高い。遺族からも特段の配慮をしてほしいとの強い要望があった」として匿名発表となったとのことで、また、裁判においても、被害者の氏名や住所などを匿名にすることが決定されました[4]。
上記のような措置の理由を、先に述べた障害学の「社会モデル」に照らしてみれば、被害者の側に責められるべきところはまったくなく、またさまざまな理由で面倒を見続けられなかった親族の側が責められるのでもなく、本来は、社会の側に根付く偏見や無理解と、彼らを受け入れる環境が準備されてこなかったことこそが問われるべきでしょう。しかし結果としてそのような捉え方に基づく報道は主流ではなかったように思われます。障害学の星加良司氏は、この事件の被害の甚大さに比して、この事件のニュースとしての取り上げ方が軽く感じられたうえに、被害者を「我々」の側に位置づけようとする姿勢が決定的に欠けていたと論じています。本来この事件は、テロ同様、「我々の社会に対する脅威」と捉えられるべきものであり、我々に対して向けられたものなのに、多くの人はそうは感じず、被害者を絶対的に他者化してしまっている(星加、2016: 90)というわけです。送り手側も受け手側も、事件の加害者や被害者を、自分たちとは違う人間(彼ら)であると認識することによって安心したい気持ちがあるのかもしれません。
また津久井やまゆり園の元職員であった西角純志氏は、報道において匿名にすることで、名前や人格が捨象されてしまうとし、このプロセスこそが社会的排除、消去のメカニズムにほかならないと述べています(西角、2016:211)。メディアにおける障害者表象の空白は、基本的には彼らの存在、ひいては彼らや関係者が抱える困難を見えにくくすることにつながり、私たちの社会から彼らを無意識のうちに排除することへとつながりかねないというわけです。名前がなければ、手の差し伸べようもなくなってしまい、つながりの社会資本からも排除されかねません。
現場の記者たちも、匿名という措置をそのまま受け入れたわけではありませんでした。基本的に、報道各社は原則被害者を実名報道としつつ、人権や遺族感情を個別に考慮に入れた上で匿名化するという方針を採っています。本当に遺族全員が匿名を望んだのかという検証も行われていますが、被害者名を匿名にするのか実名にするのかは簡単には答えの出ない問題でもあります。NHKでは、亡くなった「19人おひとりおひとりに、豊かな個性があり、決して奪われてはならない大切な日常があったはずです。私たちはこれまで十分にお伝えすることができずにきたと思っています。(中略)私たちは、失われた命の重さを伝え、その痛みを少しでも想像し、みんなで受け止めていくことで、再び悲劇を生まない社会を作っていきたいと考えています。19人の方々を知る人たちが語ってくださった思い出のかけらを集めて、確かに生きてきた「19のいのち」の証しを、少しずつここに刻んでいきたいと思っています。」として、事件後、『19のいのち(http://www.nhk.or.jp/d-navi/19inochi/)』というサイトを作り、事件で命を奪われた被害者の思い出を共有することで、障害を持った被害者の生きた道筋を伝えていく方法を探っています。
被害者名公開をめぐる二つの立場
日本では、障害者に限らず、当局は被害者を匿名にするという方向に進みつつあります。被害者の名前を出すかどうかは国によって判断が違い、たとえばドイツでは報道監視団体「独報道評議会」の指針として、被害者の名誉や人権への配慮の観点から警察や検察などが被害者の実名を発表することはなく、報道機関も公人を除けば、原則として事件や事故の被害者の氏名を報道することはないそうです。その根本にあるのは、事件の内容を理解するのに被害者の個人情報を知ることは重要でないという考え方であり、本人や遺族の同意が得られた場合に限り、被害者の名前や顔写真を報じることが認められています。一方英米では、被害者の氏名は性犯罪などを除き、「公的記録」として扱い、報道することを選んでいます。毎日新聞によれば、「メディアは情報を出したがらない警察や政府と絶えず論争し、透明性を高めるよう努めている。知人の安否や被害者の人となりを知るために事件や事故の実名報道は不可欠で、人々はそれを受け入れている。」「メディアに公表することで捜査の手助けになることがよくある。」というのがその根拠とされています[5]。
日本では個人情報保護法施行後、個人情報の保護意識の高まりを背景に、警察などが匿名発表を正当化する傾向にありますが、一方で報道機関側は、実名報道が持つ訴求力を根拠に、実名報道すべきと主張してきました。確かに匿名報道となれば、本人が特定できないために、当局の都合よく事実が修正されたり、省略されてしまったりする可能性も否定できませんし、被害の事実や背景を知らせたい被害者や家族もいることでしょう。
その一方で、被害者の家族が特定されることで、メディアスクラムと呼ばれる過熱的報道の対象になりがちで、いったん注目が集まればその精神的苦痛や社会生活への影響もまた甚大であり、二次被害に苦しむことも想定されます。昨今では、ネット上の心ない書き込みなどによって、いわれのない中傷を受ける可能性も無視できません。被害者への救済措置が以前よりは進んだとはいえ、被害者の実名、匿名報道に関する明確なルールはまだ存在しておらず、それぞれの事件の背景によって議論の上で報道の仕方が決まっています。ゆえに各報道機関によって、同じ事件であっても異なる判断に至ることが少なくないようです。私たちにできることは、報道を比較しながら、なぜ匿名報道がなされているのか。その背景に何があるのかを考えつつ、福祉学の「社会モデル」に沿って、社会の側が事件から何を理解し、どう変わっていくべきなのかを考えてみることではないでしょうか。