インクルーシブ・メディア Encouraging Inclusivity in Media -メディアによる包摂と排除-

ノート|01

チャリティか、感動ポルノか? 身体障害とメディア表現について考える

小川 明子

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障害者自らが発信する試み

いくら交流や対話が大事だといっても、なかなかそうした機会を持つことができない状況において、マス・メディアのなかに障害者の存在を描き出していくことは、私たちの頭の中に障害者の存在を可視化するうえで重要なことでしょう。しかしそのとき、その作品や情報が、障害を持たない者を満足させるだけの「感動ポルノ」になっていないかを問うと同時に、「パターナリズム(父性主義)」に陥っていないかという点にも常に気をつけておきたいものです。パターナリズムとは、強い立場にある者が、弱い立場にいる人の利益のためだといって、本人の意図に沿わずに支援したり、結果的に干渉してしまったりすることをいいます。制作者の側が善意であっても、その取り上げられ方が本人の意思とは異なる、侮辱されていると感じるということはメディアの現場に限らずよくあることです。取材される経験があればわかると思いますが、紙面や時間の制約がある限り、伝えたはずのことがほとんど伝わらないということもありそうです。

そうしたパターナリズムを避け、誰かのフレームを介さず、自分で発信したいという障害者も増えてきましたし、それを可能にするメディア環境も生まれています。ここでは三つの特徴的な例を挙げて、その意義を見ていきましょう。

デジタル・ストーリーテリング(メディアコンテ:http://mediaconte.net/)

まず、私たちが三年間にわたって開催してきたデジタル・ストーリーテリングの実践を振り返ってみます。ワークショップでさまざまな立場の人びととともに語りあいながら、自らのストーリーを写真と自分の声で2—3分の映像にするデジタル・ストーリーテリングは、特にこれまで声を聴くことのなかった人びとの声を聴いたり、互いに経験を交わし合うツールとして、欧米を初め世界で展開されています。私たちは障害を持つ人たちとともに大学生たちと映像を制作しましたが、このとき、気づいたことは主に以下の二点でした。

まず、障害を持つ人びとにとって、メディアを使って突然何かを語り出すのは難しく、普段思っている不満や意見を出し、整理する場作りが必要だということ。安心して話せる場ができることで、回を重ねるにつれ、コンビニでの日常や、i-Pad支援の要請など、言いたいこと、普段彼/彼女らが思っていることなどが次々と出てくるようになりました。話を誰かにきちんと聴いてもらえる場があれば、彼らが抑え込んでいることや、普段考えていることをより積極的に語り出すことができるようになる可能性が見えてきます。

もう一つ印象深かったことは、一緒に映像を作っていく過程で、むしろ聴き手である学生たちのほうが障害を持つ人に対する街中の人びとの視点や、自分自身が持っている偏見やステレオタイプに気づき、さまざまな学びを得たことです(小川、2016)。ある学生は、障害者と一緒にバスに乗り、車椅子でバスに乗るときの障害者の写真を撮るときに、普段逆の側で障害者を見ている自分の視線に気づき、その暴力性に気づいたと語っています。映像を一緒に制作するというプロセスは、パターナリズムや感動ポルノ化をできるだけ避けるとともに、メディアを通じて交流するだけでは伝わらない、人間として根底部分での共感を得るプロセスでもあったようです。

メディアコンテ 実践の様子

三角山放送局(札幌)http://www.sankakuyama.co.jp/

二つ目の事例は、札幌市のコミュニティFM局、三角山放送局です。この小さな放送局では、「社会に向けて何かを言いたいひとだけがマイクの前に立つ」ことを目標にしており、その意志がある人にはあらゆる応援をして、身体障害や視覚障害のある人も、ほとんど声が出なくなったALS患者も番組を担当しています[4]。息を吹きかけることでマイクの入/切が操作できる機械を準備したり、視覚障害の人が終わりの合図を受けるための「ぶるぶるキュー」といった簡易ツールを作成して、その参加を助けています。またALS患者の米沢和也さんは、目の動きだけで自分の声で話ができるコンピューターソフトの手助けで、彼はベッドの上で番組を続けています[5]。このように考えれば、メディアの発達は、これまでよりもはるかに多くの人びとが意見を述べ、人びととつながることを可能にしているともいえます。彼にとってメディアとは、まさしく世界とつながるための媒体といえます。あるいは身体障害を持つ私の知り合いは、ガラケーと呼ばれるボタン式携帯電話によって、不自由な会話をせずとも相手とつながることができると喜んでいました。ALS患者のメディア支援をはじめ、社会的弱者と呼ばれる人びとのメディア使用に着目してきた社会学者の柴田邦臣氏は、メディアの補助を借りながら、これまで表に出ることができなかった人びとが世界とつながっていく様子にこそメディア・リテラシーを見出だしています[6]

のヴァテレビ(https://www.youtube.com/channel/UCG-34arDueJ9Yep6vIYg8Mw)

最後に浜松に本拠を置く知的障害者施設アルス・ノヴァで毎月発信している「のヴァテレビ」に着目してみましょう。このウェブ映像は、「インクルーシブ・メディア」の元祖として、彼らの日常をユニークに映像にして公開しています。これまでどちらかというとメディアに取り上げられることを避けがちであった知的障害の人たちを、支援スタッフが、一人一人の性格や特徴を丁寧に描きだし、実に伸び伸び個性豊かに生活する様子が表現されます。ここで注目してみたいのは、支援者たちの変化です。発信するという目的を持つことで、単に支援をするだけでなく、日常に起こるさまざまな事件や出来事を「伝える」という視点から見直すことによって、出来事が持つ意味も変わってくるのだといいます。伝えるという目的を持つことで、閉じられた空間が開かれていく側面があるようにも感じられます。

これらのメディアは、自由に表現できる反面、一般的な様式とは異なるために多くの人に伝わりづらいという限界も抱えています。今後、おびただしい量の映像やサイトに囲まれた私たちの生活の中で、どのように多くの人に伝わりうるのか、アイディアも求められることになるでしょう。

参考資料

  • Alatalo,J.M.and Alatalo,A.O. “Social Inclusion in Swedish Public Service Television: The Representation of Gender, Ethnicity and People with Disabilities as Program Leaders for Children’s Programs” Social sciences, pp.645-649, 2014.
  • 小川明子『デジタル・ストーリーテリング 声なき想いに物語を』リベルタ出版, 2016.
  • CAB(2005) “The presence, portrayal and participation of persons with disabilities in television programming” http://www.cab-acr.ca/english/research/05/sub_sep1605_research.htm (2018.3.28アクセス)
  • 坂田邦子「メディア・テクノロジーの発展と異文化の創造 」小野善邦編『グローバル・コミュニケーションズ論』pp.87-101.世界思想社 2007.
  • Saltes,N. “Capturing Disability on Camera: An Analysis of Disability Representation in Television Programming with a Focus on Canadian Regulatory Initiatives” Canadian Journal of Media Studies,Vol.8, 2010. http://cjms.fims.uwo.ca/issues/08-01/saltes.pdf(2018.3.23アクセス)
  • Nelson,J.A. “Group: Images of Disability” Images that Injure: P.M.Lester and S.D.Ross eds., Pictorial Stereotypes in the Media, Greenwood Publishing Group, 2003.
  • 塙幸枝「お笑いの視聴における(多様な)読みは可能なのか –スチュワート・ホールのエンコーディング/ディコーディング理論から」『理論で読むメディア文化 —今を理解するためのリテラシー』松本健太郎編 2016.
  • 藤本貴之「日テレは正気か?「見世物小屋」と化した24時間テレビ」 http://ironna.jp/article/3913(2018.3.25アクセス)
  • 好井裕明「障害者表象をめぐり“新たな自然さ”を獲得するために」荻野昌弘『文化・メディアが生み出す排除と解放』明石書店,2011.