インクルーシブ・メディア Encouraging Inclusivity in Media -メディアによる包摂と排除-

ノート|06

嫌韓ヘイトスピーチの始原に 包摂と排除の論理をめぐるポリティクスとパラドクス

伊藤 昌亮

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専門知対集合知という構図

リベラル側の議論、およびその支えとなっていた知的権威に対抗するにあたって彼らは、では彼らなりの主知主義をどのように発展させ、どのような知をそこに作り出していったのだろうか。それぞれの側の議論の支えとなっていた知のあり方について考えてみよう。

彼らの立場からすれば、リベラル側の知の担い手となっていたのは東京大学やソウル大学というアカデミズム、および朝日新聞を始めとするマスメディアなど、知的権威としての存在だった。一部のエリートやエスタブリッシュメントによる知、いわゆる専門知がそこに想定されていたと言えるだろう。一方で右派側の知の担い手となっていたのは有象無象の匿名のネットユーザーだった。いわゆる集合知がそこに想定されていたと言えるだろう。

このようにそこではリベラル側の知としての専門知と、右派側の知としての集合知という構図が設定されていたと見られる。専門知対集合知というこの構図は彼らのモチベーションの中で、リベラル対保守という従来の構図よりも実は本質的なものだったのではないだろうか。実証主義という方法論そのものが彼らの信条となっていたのも、元来はそうした構図の中で、集合知によって専門知に対抗するためにそれが最も有効な方策だったからだろう。いいかえれば彼らの場合には集合知によって専門知に対抗したいという強い信条がまずあり、それを満たすための方策として、実証主義という方法論が選び取られていたと見られる。その原点にあったのはやはり強烈な反権威主義の精神だった。

集合知によって専門知に対抗しようというこうしたスタンスは、元来は反マスメディアというアジェンダの戦術に関わるものだった。マスメディアの「インチキ」を暴き、その不正を告発するために、不特定多数のネットユーザーの人海戦術を介してさまざまな情報が収集され、検証され、特定されていく。そうした独自の集合知システムを当時の2ちゃんねらーが編み出していったことは前掲書でも見たとおりだ。それを歴史修正主義というアジェンダに関わるものとして適用したケースがバファリン作戦だったと位置付けられるだろう。ネイバー総督府がそこで目指したのは、2ちゃんねらーがテレビ番組などのヤラセ疑惑や捏造疑惑を追及したのと同様の方法でリベラル側の議論の「インチキ」を暴くことだった。

このように当時の2ちゃんねる文化の中では、集合知というアプローチは反権威主義の精神に強く結び付けられ、専門知を振りかざそうとする知的権威に対抗するための有効な方策として捉えられていた。それは元来、教師や知識人など、リベラル派のエリートから教示されるばかりの「ご高説」に反発するところから生み出されたものだったサブカル保守クラスタが、ネットメディアの中で手に入れた新しい武器だったとも言えるだろう。

当時、独自の集合知システムによって開発されたOS、リナックスの成功をきっかけに情報工学の分野では、いわゆるオープンソース運動が大きな注目を浴びていた。知の占有を避け、そのラディカルな共有を図ることによって優れたソフトウェアを開発することを目指した運動だ。そのイデオローグとなったアメリカのプログラマーのレイモンドは、専門知型の「伽藍方式」に対して集合知型の「バザール方式」という開発方式を提唱していた。そうした考え方は他の分野にも広く適用され、01年1月には集合知システムによる百科事典プロジェクト、ウィキペディアが立ち上げられる。04年5月にはそうした考え方を定式化したものとして、アメリカのジャーナリストのスロウィッキーによる著書“The Wisdom of Crowds”が出版された。この本は『「みんなの意見」は案外正しい』(角川書店)という邦題で06年1月に日本でも出版され、大きな話題を呼んだ。

このように集合知という考え方は当時、2ちゃんねるという場に限らずより広い文脈の中で注目されていたものだった。しかも「ウィンドウズ対リナックス」「ブリタニカ対ウィキペディア」などというように、集合知によって専門知に対抗しようというスタンスは旧来の知的権威への挑戦、反権威主義の精神の表現として位置付けられることが多かった。そもそも2ちゃんねるという場自体がそうした発想の中から生み出されたものだったと捉えることもできるだろう。そのためそうしたスタンスがそこで反権威主義の精神に、それも彼ら独自のそれに強く結び付けられて捉えられていたのもごく自然なことだった。

ただしここで注意しておかなければならないことがある。集合知というアプローチは元来、民主主義という理念に強く結び付けられて捉えられてきたことから、むしろ左派側、リベラル側の議論に与するものとして位置付けられるのが常だった。オープンソース運動の起点となったいわゆるフリーソフトウェア運動が元来、60年代のヒッピー文化の影響を受けて生み出されたものだったという経緯もあり、そうした含意は暗黙のうちに自明のものとされてきた。したがってここでもやはり専門知対集合知という構図の位置付けが、通念的な理解とは反転したものになっていたことに注意しておく必要があるだろう。

集団的浅慮と決断主義

アメリカの社会科学者のペイジによれば、集合知のメカニズムは主として二つのモデルから説明することができる。その一つは「多様な予測モデル」と呼ばれるもので、多様な意見の間で誤差が相殺されるため、全体として予測の精度が向上するというものだ。もう一つは「情報寄せ集めモデル」と呼ばれるもので、各自が持っている個別の知識が寄せ集められるため、全体として情報の精度が向上するというものだ。前者はいわば「当てる力」を、後者は「探す力」を高めるものだと言い換えることもできるだろう。

しかし裏を返せばこのことは、集合知というアプローチの限界を意味するものでもある。つまり集合的に思考することにより、人間の知的能力はありとあらゆる面で向上するわけではなく、そこで高められるのは特に「当てる力」と「探す力」に限られるという点だ。人間の知的能力にはほかにもさまざまな要素がある。その中でも特に状況判断力や意思決定力などは、むしろ従来から社会心理学の分野では、集合的に思考することに伴って逆に曇らされてしまうことが多いと考えられてきた。

アメリカの心理学者のジャニスによれば、人間は集団で物事を決める場合、一人で決める場合よりも愚かな意思決定をしてしまうことがある。特に自分たちの無謬性や道徳性を過信している集団にそうした傾向が強く見られるという。ジャニスはそれを「集団的浅慮」と呼んだ。また、関連して「同調」によって認知や判断が歪められたり(アッシュ)、「集団極化」によって意思決定が極端化したり(ストーナー)、「情報カスケード」によって同様の意思決定が連鎖したりするなど(ビクチャンダニ)、集合的に思考することに伴って人間の知的能力が劣化してしまうメカニズムがさまざまに検証されてきた。

つまり人間の知的能力には、集合的に思考することによって向上する面もあれば逆に劣化してしまう面もある。集合知のメカニズムによって「当てる力」や「探す力」が高められる一方で、集団的浅慮などのメカニズムに伴って状況判断力や意思決定力などが曇らされてしまうことも多い。ネットの普及により、人間が集合的に思考するための場がそれまでにないスケールでネットメディアの中に実現されたとき、そこにはこれら二つの面の変化が極端なかたちで現れることになったのではないだろうか。

ネイバー総督府は独自の集合知システムを活用し、「当てる力」や「探す力」を飛躍的に高めることにより、リベラル側の議論を完膚なきまでに打ち負かすことができた。しかし一方でまさにその圧倒的なパフォーマンスのゆえに、その全能性や無謬性への過信が生じ、その結果、特に彼ら自身よりもむしろのその周囲の日本側ユーザー、さらにその周辺の2ちゃんねらーの中に、集団的浅慮などのメカニズムに伴って独善性や極端性、過激さや無謀さが生み出されることになったのではないだろうか。

青山里論争が日本側ユーザーの圧勝に終わり、ネイバー総督府が立ち上げられた04年末ごろから、エンジョイコリアには大量の2ちゃんねらーが流入してくるようになった。彼らはネイバー総督府の大活躍に拍手喝采を送り、その勢いに乗じるようにして自らも攻撃に加わるようになる。有能な集合知システムの一端に位置しているという意識からか、その全能感と無謬感を存分に味わいながら、反権威主義的な気分にまかせ、韓国側ユーザーを相手に暴言を吐いたり誹謗中傷を繰り広げたりする人々が目立つようになる。

集合知システムのいわばフリーライダーとしてのそうした人々は「嫌韓厨」などと呼ばれ、コアな日本側ユーザーの間ではむしろ白眼視されていた。そこでは実証主義という方法論が意識されることもなく、生半可な知識のみに基づいて激しい攻撃が繰り広げられる。さらに反権威主義的な主知主義というスタンスが理解されることもなく、反権威主義的な気分ばかりがやたらと煽り立てられる。やがてコアな日本側ユーザーは韓国側ユーザーよりも、むしろそうした人々の発現を封じるべく奮戦するようにさえなってしまう。

こうした経緯の中にこそ、反知性主義の構造転換の一つの契機を見ることができるのではないだろうか。つまり日本側ユーザーの間では当初、集合知のメカニズムによって「当てる力」や「探す力」という意味での知的能力が向上し、そこに反権威主義的な主知主義という意味での反知性主義が実現されることになった。しかしその後、集団的浅慮などのメカニズムに伴って状況判断力や意思決定力、さらに他者理解力や反省力・自省力などの意味での知的能力が劣化し、そこに通念的な意味での反知性主義、すなわち野蛮主義や蒙昧主義が招来されることになった。

その際、前者の現象、つまり集合知のメカニズムによる知的能力の向上という現象は限定的なものだった。集合知システムを実際に稼働させ、「当てる力」や「探す力」を高めるべく尽力していた人々は、ネイバー総督府を中心とするコアなメンバーに限られていたからだ。しかも彼らは、実際には単なる有象無象のネットユーザーというわけではなかった。そこには歴史学の研究者と思われる者も混じっていたし、ハングルの読み書きに通じている者も何人もいた。その実体はある種のエリート集団であり、一般の2ちゃんねらーがそこに参入することは容易ではなかった。

一方で後者の現象、つまり集団的浅慮などのメカニズムに伴う知的能力の劣化という現象は非限定的なものだった。コアなメンバーの周囲の日本側ユーザー、さらにその周辺の2ちゃんねらーはハングル板を介して次から次へと大量に流入してきたからだ。翻訳掲示板としてのエンジョイコリアというサイトの性格上、日本側ユーザーであれば誰であれ、ネイバー総督府を中心とする集合知システムの一端に位置しているという意識を持ち、その全能感と無謬感を味わうことができた。その結果、そうしたメカニズムが作動するための場が非限定的に広がっていくことになる。

こうした非対称性、つまり集合知のメカニズムの限定性と集団的浅慮などのメカニズムの非限定性との間の非対称性により、前者が後者に凌駕されてしまう。その結果、反権威主義的な主知主義という意味での反知性主義は通念的な意味での反知性主義、すなわち野蛮主義や蒙昧主義に駆逐されてしまう。そこにもたらされたのが反知性主義の構造転換だったのではないだろうか。

なおその際、前者の現象の中には、後者の現象を招来した要因が含まれていたと見ることもできる。ネイバー総督府を中心とするコアなメンバーは当時、「敵」を見定めると、ありとあらゆる論法を用いて徹底的にやり込め、完膚なきまでに叩きのめしてしまうのが常だった。上記のブロガーは、「jpn1_rok0なんかを相手にしたら大変だなと思っていた」という。完璧なチームワークのもと、敵を完全に殲滅するまで戦い抜こうとする彼らのそうした断固たる態度が、その周囲の日本側ユーザー、さらに周辺の2ちゃんねらーの拍手喝采を呼び、根拠のない全能感と無謬感をそこに植え付けることにより、その独善性や極端性、過激さや無謀さを促進することになったのではないだろうか。

ドイツの政治学者のシュミットによれば、政治的な行為の本質とは「友」と「敵」とを区別するところにある。そこで主権者は特に戦争や内乱など、「例外状況に関して決断を下す」ことを求められるが、それは大衆の拍手喝采に支えられて成り立つものだという。そうした態度をシュミットは「決断主義」と呼んだ。また、のちに宇野常寛はこの概念をサブカルチャーの領域に引用し、「たとえ究極的には無根拠でも、特定の価値を選択する(決断する)」態度として論じている。

当時のエンジョイコリアでは、その中心部から周縁部へと伝播していくかたちで、こうした決断主義的な態度が広く共有されていたのではないだろうか。そしてそれが、反知性主義の構造転換の一つの契機となったのではないだろうか。

 

引用・参考文献

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  • 伊藤昌亮(2018予定)『ネット右翼とは何だったのか』岩波書店
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  • 朴泰赫(1993)『醜い韓国人―われわれは「日帝支配」を叫びすぎる』(光文社)
  • 樋口直人(2014)『日本型排外主義―在特会・外国人参政権・東アジア地政学』名古屋大学出版会
  • 森本あんり(2015)『反知性主義―アメリカが生んだ「熱病」の正体』(新潮社)
  • 安田浩一(2012)『ネットと愛国―在特会の「闇」を追いかけて』講談社
  • 「2ちゃんねる掲示板」(現在は「5ちゃんねる掲示板」)<https://5ch.net/>
  • 「*.core」<https://meidaimae.exblog.jp/>
  • 「エンジョイコリア」<bbs.enjoykorea.jp>(現在はリンク切れ)
  • 「獄長日記」<https://ameblo.jp/dreamtale/>
  • 「大日本史番外編朝鮮の巻」<http://www.geocities.co.jp/WallStreet/2463/>
  • 「ちょっと一言」<http://blog.livedoor.jp/hitkot/>