インクルーシブ・メディア Encouraging Inclusivity in Media -メディアによる包摂と排除-

ノート|06

嫌韓ヘイトスピーチの始原に 包摂と排除の論理をめぐるポリティクスとパラドクス

伊藤 昌亮

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エンジョイコリアでの日韓論争

当時、2ちゃんねらーによる歴史探索の営みは特にあるサイトでの活動と連携しながら進められていった。「エンジョイコリア」(略称「エンコリ」)というサイトだ。

韓国のIT企業のNHN(のちのネイバー)により、02年6月、日韓共催ワールドカップサッカーの開催を機に両国のネットユーザーの交流のための場として開設されたこのサイトは、いわゆる翻訳掲示板の一つだった。日本側では「エンジョイコリア」、韓国側では「エンジョイジャパン」というサイトとして提供され、両国のユーザーが自国側のサイトに自国語でメッセージを書き込むと、それが機械翻訳により、相手国側のサイトに相手国語で表示される仕組みになっていた。翻訳の精度は必ずしも高いものではなかったが、システムの「クセ」を踏まえて用いれば、多少の行き違いはあっても十分に対話を交わすことができた。なお当時、こうしたサービスにはほかにもさまざまなものがあり、たとえば日韓間のものでは中央日報の翻訳掲示板、日中間のものでは「上海クイーン」などが有名だった。

このサイトのユーザーには、韓国側では大手ポータルサイトのネイバー経由で入ってきた一般のネットユーザー、特に高校生や大学生などのティーンエージャーが多かったが、一方で日本側では2ちゃんねる経由で入ってきた者、すなわち2ちゃんねらーが圧倒的に多かった。2ちゃんねるでは02年8月9日、ハングル板に「NAVER JAPAN翻訳掲示板」というスレッドが立てられる。その後、後続のスレッドが次々と立てられていき、09年6月にこのサイトが閉鎖されるまでにその数は数百にも及んだ。

このサイトにはいくつかの「板」が用意されていた。「旅行板」「生活板」「グルメ板」「スポーツ板」などでは元来の趣旨のとおり、両国のユーザーによる情報交換がなごやかに行われることが多く、特に「アニメ板」などでは共同創作が行われることもあったが、一方で「歴史板」「伝統板」「時事板」「ニュース板」などでは、両国間のさまざまな問題をめぐって激しい論争が行われることが多かった。中でもとりわけ歴史板は、歴史認識問題をめぐって両国の精鋭がぶつかり合う「戦場」として知られていた。

たとえば02年12月の2ちゃんねるのスレッドによれば、当時の歴史板での主な論点は次のようなものだったという。日韓併合は国際法上合法的なものだったのか、それとも違法なものだったのか。日本の植民地支配は朝鮮半島を近代化したのか、それとも収奪したのか。あるいはハングルを普及させたのか、それとも弾圧したのか。創氏改名、従軍慰安婦、朝鮮人の日本への渡航などは自発的に行われたものだったのか、それとも強制されたものだったのか。日本の戦後補償は完了したのか、それともまだ終わっていないのか。日本の戦後援助は韓国の発展に大きく貢献したのか、それともあまり役立っていないのか。

いずれも90年代以降、『醜い韓国人』をめぐる件などをきっかけに両国間で盛んに論議されてきた論点だったと言えるだろう。かつてのバックラッシュ保守クラスタの問題意識が日本茶掲示板などを経由し、さらに2ちゃんねるのハングル板やニュース速報板などを経由し、ほぼそのままのかたちでこのサイトに流れ込んでいたと見られる。そのためそこでは歴史修正主義というアジェンダばかりでなく、嫌韓というアジェンダの影響力もやはりそれなりに保持されていた。

そうした議論の際、当初は韓国側ユーザーのほうが圧倒的に多かったため、日本側ユーザーは「量」で圧倒されてしまうことが多かった。そのため彼らは「質」で応戦しようとする。一般のネットユーザーから成る韓国側ユーザーは、ごく一般的な知識に基づき、ごく一般的な歴史観を喧伝するばかりのことが多かったが、それに対してハングル板での歴史談義などを通じて歴史探索の営みを続けてきた2ちゃんねらーを中心とする日本側ユーザーは、さまざまな資料をあちこちから探し出してきては韓国側に突き付けていく。韓国側ユーザーが歴史教科書や歴史マンガなどから二次情報・三次情報を持ち出してくるのに対して、日本側ユーザーは学術論文のほかにも記録資料や外交文書など、しかも和文のものばかりでなく漢文や英文のものまで含めて、さまざまな一次資料を図書館や史料館などから探し出してくる。日本側には歴史学の研究者と思われる者も混じっていたし、ハングルの読み書きに通じている者も何人もいた。

一般のネットユーザーから成り、しかもティーンエージャーが多く、ごく一般的な歴史観を喧伝するばかりの韓国側ユーザーが、ハングル板で鍛えられてきた2ちゃんねらーが中心で、しかも研究者などを交え、さまざまな史料や学説を駆使して専門的な議論を繰り広げようとする日本側ユーザーにかなうはずもなかった。そのためしばらくすると、逆に韓国側ユーザーは日本側ユーザーの「知識武装」に圧倒されてしまう。

さらに日本側ではそうした「前線」での戦いを支援するための「情報武装」もさまざまに進められていく。02年10月には「NAVER Watch」など、いくつかのまとめサイトが立ち上げられた。また、03年3月には国立公文書館の膨大な史料が保存されているサイト「アジア歴史資料センター」が紹介される。こうして知識の整理と共有が進められていく一方で、「自己中海賊キャプテン=ハーングック」「コリアはええで! ケンチャナヨ」など、韓国側を面白おかしく「ディス」ろうとするフラッシュアニメ、いわゆる嫌韓フラッシュアニメが紹介され、「祭り」が盛り立てられていく。

なお、アジア歴史資料センターは94年8月の村山富市首相による「心からのお詫び」のコメント、いわゆる村山談話を受け、アジア近隣諸国との「平和友好交流計画」の一環として01年11月に開設されたものだった。そもそもエンジョイコリアの場合もそうだが、日韓間の交流のために開設された場がこうしたかたちで活用されるに至ったという経緯は皮肉なものだろう。

ネイバー総督府とバファリン作戦

当初、日本側ユーザーは「1」や「a」などの共通ハンドルネームを用い、一体となって韓国側に応戦していたが、やがて一部の有力な論者が固定ハンドルネームを用いるようになる。その後、03年5月には固定ID制度が導入された。その結果、それぞれの論者の力量が明らかになり、何人かの「論客」がその勇名を轟かせるようになる。初期の論客にはkimura、polalis、j9(のちのzeong)などがいた。その後、jpn1_rok0、hitkot、kimuranobuo、dreamtale、myeloblast、tsubuan、yonaki1111なども盛んに活躍するようになる。特にjpn1_rok0、zeong、polalisの三人は、その該博な歴史知識と鋭利なディベート力のゆえに「三悪人」などと呼ばれ、韓国側からも日本側からもひときわ恐れられた存在だった。中でもjpn1_rok0はそのリーダー格で、当時の様子を振り返っているあるブロガーによれば、「頭はかしこく、性格きつく」、「まったく隙を見せない横綱相撲」さながらのその戦いぶりはまるで「不敗の軍神のようだった」という。

日本側のそうした圧倒的な攻勢に抗し、韓国側からもやがて何人かの論客を中心に反攻が開始される。その中の一人のdymaxionにより、03年9月29日には歴史板に「[特集]青山里戦闘背景1」というスレッドが立てられた。韓国の「建国神話」の一部を成し、日本の植民地支配下の朝鮮独立運動の中でも最大の戦果を挙げたとされる20年10月の戦役に関するものだった。韓国のいくつかの歴史書によれば、その際の日本軍の死傷者は千人とも三千人とも言われ、この事件を機に日本は朝鮮への弾圧姿勢を強めることになったと考えられていた。

しかしアジア歴史資料センターに保存されている出兵史料からも、さらに靖国神社に保管されている合祀記録からも、日本軍が甚大な損害を被ったという事実は確認されず、その際の死者は十人程度だったと目されていた。そこから日本側ユーザーの反撃が開始される。彼らはまず軍事史学会の学会誌『軍事史学』に79年12月に寄稿された防衛大学校教授の論文を探し出してくる。さらに関連するいくつかの史料をアジア歴史資料センターから次々と探し出してくる。それらはいずれも日本軍が軽微な損害しか受けなかったことを裏付けるものだった。

それに対して韓国側ユーザーは、朝鮮独立軍を率いた将軍を記念するサイトから当時の写真を持ち出してきて日本軍の甚大な被害をあらためて強調した。しかし日本側ユーザーはその写真を考証し、軍備などの点から見て当時のものではないことを喝破してしまう。さらに彼らは、日本軍を率いて戦死したとされる将校の記録をさまざまな史料から探し出してくる。陸軍省の将校名簿に当たってみても、その将校がこの時期に戦死したという事実は確認されなかった。一方で、その将校のその後の行動が記録されている史料が別の歴史書から発見される。

こうして韓国側の主張は次々と突き崩されていった。さらに日本側ユーザーは、朝鮮側の将軍が独立運動をあきらめ、日本側に援助を求めてきたと見られるやりとりの際の史料をやはりアジア歴史資料センターから探し出してきて韓国側に突き付ける。この「ダメ押し」により、韓国側ユーザーはついに完膚なきまでに叩きのめされてしまう。「青山里論争」はこうして日本側ユーザーの圧勝に終わった。

その後、日本側の論客は04年12月、三悪人を中心に「寧覇総督府(ネイバー総督府)」という組織を立ち上げた。かつての朝鮮総督府をネイバーのサイトに再現したものというほどの意味だろう。彼らは独自のサイトを立ち上げ、そことエンジョイコリアとを結びながらより組織的な活動を繰り広げていく。「作戦会議」などとしてオフ会が開催されることもよくあった。

そうした彼らにとって最初の大仕事となったのは、「バファリン作戦」と名付けられた一連の行動だった。05年1月13日、中央日報日本語版に「閔妃は寝室ではなく庭で殺害」という記事が掲載された。日清戦争直後の1895年10月、反日運動の先鋒と目されていた朝鮮の皇后の閔妃が殺害された事件に関連し、日本側の犯行の詳細を示す史料がソウル大学教授の歴史学者、李泰鎭によって発見されたというものだった。韓国側のサイトで公開されていたその史料を入手すると、彼らはさっそく検討に入る。その結果、いくつかの疑問点が浮かび上がってきた。

1月15日から16日にかけて箱根で開催されたネイバー総督府の新年会、「箱根会議」の場でこの件が話し合われ、作戦計画が練られていく。その前年、04年7月15日に東京大学で行われた講演「グローバリゼーションの時代、歴史紛争を超えて」の中で李が、日本と中国はともに韓国に「思いやり」を持つべきだと発言したという経緯を受け、韓国の「慰撫史観」はその半分が「思いやり」で、残りの半分が「痛み止め」でできているなどとして盛り上がった彼らは、当時放送されていた鎮痛剤のCMのフレーズにかけ、それを「バファリン作戦」と名付けた。

その後、彼らは関連する史料をアジア歴史資料センターから探し出してくるとともに、1月19日には外交史料館に赴き、問題の史料の複写申請を行った。25日にはそれが届けられ、そこから原史料と李の議論とを突き合わせながらの詳細な検証作業が開始される。その結果、いくつかの問題点が明らかになってきた。李が発見したとされる史料はすでに公開済みのものだったことや、李の議論には原史料そのものからではなく、そこに記されたメモに基づいてなされている点があること、さらに原史料だけからでは明言することが困難な点があることなどが指摘された。

1月31日にはネイバー総督府のメーリングリストが立ち上げられ、2月2日には作戦計画が具体化される。公開質問状を李に送り付けることや、特定のタイミングを定めてエンジョイコリアに一斉にスレッドを立て、「爆撃」を展開していくことなどが取り決められた。8日には51項目にも及ぶ質問がリストアップされ、13日にはそれらが14項目にまで絞り込まれた。さらにその間、イェール大学に在籍しているというアメリカ側の協力者により、質問状の英訳が進められていく。

そして2月14日、質問状がメールで李に送り付けられるとともに、書面で郵送された。同時にエンジョイコリアの歴史板には「質問状送付ノ件」というスレッドを皮切りに、関連するスレッドが次々と立てられていく。その猛烈な投稿の様子は2ちゃんねるのハングル板で「絨毯爆撃」と形容されたほどだった。さらに19日には英文の質問状が李に送り付けられる。

するとその日、李から英文のメールの返信が送られてきた。3月半ばまでに回答する旨のものだった。それを受け、ネイバー総督府の盛り上がりは一段と高まっていく。2月22日には「NAVER総督府公信108号」というフラッシュアニメが公開され、「祭り」がさらに盛り立てられる。3月1日にはエンジョイコリアでの「第二次爆撃」が、さらに15日には「第三次爆撃」が繰り広げられた。

そして3月18日、李から回答のメールが送られてきた。しかしその内容は、すべての質問にクリアに答え切ったというものでは決してなかった。そのためネイバー総督府は勝利の凱歌を上げ、最後の作戦行動に向けて突き進んでいく。21日には最大規模での「第四次爆撃」が盛大に繰り広げられた。こうしてバファリン作戦は大団円を迎え、論争はここでもまた日本側ユーザーの圧勝に終わった。

反知性主義対主知主義という構図

ここでバファリン作戦の背景をもう少し掘り下げてみよう。李は90年代以降、日韓間で争われてきた「日韓併合合法不法論争」、つまり日韓併合が合法的なものだったのか違法なものだったのかという論争を韓国側で主導し、「日韓併合不成立論」を展開してきたことで知られた人物だった。01年1月から11月にかけて三回にわたり、韓国の主導のもとでアメリカと日本で行われた「韓国併合再検討国際会議」の場でも韓国側の急先鋒として、不成立論を強く主張する立場を取っていた。

その李が東京大学の「共生のための国際哲学交流センター」に招かれ、04年6月から7月にかけて「近代韓日関係史における法と暴力」という連続講義を行った。この件は一部で話題を呼び、6月15日付の朝鮮日報日本語版には「東京大学で『日本侵略史』講義する李泰鎭教授」という記事が掲載された。そこにはこの講義の趣旨として、「明治時代の日本が韓半島を掌握するため犯した暴力の実態を韓国史の観点から紹介することで、前世紀の歴史に対する認識の差を解消するのが狙い」という李の言葉が紹介されていた。すると2ちゃんねるではこの記事が引用され、関連するスレッドが次々と立てられていく。そしてその後、この講義の締めくくりとして一般向けに行われたのが7月15日の講演だった。ネイバー総督府からは三悪人の中のzeongとpolalisがそれを聴講しに行き、その様子をエンジョイコリアに投稿している。

こうした背景を踏まえ、その翌年の李の「発見」を受けて発動されたのがバファリン作戦だった。したがってそれは90年代以降、『醜い韓国人』をめぐる件などをきっかけに両国間で繰り広げられてきた一連の論争を継ぐものだったと見ることができるだろう。

しかしネイバー総督府のスタンスは、オーソドックスなバックラッシュ保守クラスタのそれと同じものではなかった。前掲書でも見たように日本型歴史修正主義のアプローチは物語的歴史観に基づき、歴史を物語として構成し直すことによってその語り直しを図ろうとするもの、構築主義的なものだったが、一方で彼らのそれはサブカル保守クラスタに固有の歴史的物語観に基づきながらも、むしろ徹底して実証主義的なものだった。そうした意味では欧米のホロコースト否定論のそれに近いものだったのかもしれないが、しかしそこで追い求められていたのはホロコースト否定論の場合のようなご都合主義的な実証主義ではなく、2ちゃんねる流のソース至上主義に基づく徹底したそれだった。

総じて日本型歴史修正主義の場合にもホロコースト否定論の場合にも、その根底には東京裁判史観なりホロコーストの存在なりをどうしても否定したいという強い信条がまずあり、それを満たすための方策として、構築主義なり実証主義なりという方法論が選び取られていたと見られる。しかし彼らの場合には逆に実証主義という方法論そのものがまずあり、むしろそれを活かすための主題として、歴史修正主義というアジェンダが選び取られていたのではないかと思われる。いいかえればそこでは実証主義という方法論そのものが信条となっていた。実際、彼らの議論では、戦前エスタブリッシュメントの復古主義的な思いに通じるような信条が打ち出されることなどはなかった。

つまり彼らの中では歴史修正主義というアジェンダが単純に信奉されていたわけではなく、ましてや嫌韓というアジェンダが闇雲に信奉されていたわけでもなかった。彼らの中にはハングルの読み書きに通じている者もいたし、韓国人の友人を持っている者もいた。いずれも韓国の歴史や文化に詳しく、そうした意味ではむしろ「親韓」の側に位置付けられてしかるべき集団だったのかもしれない。実際、彼らのリーダー格だったjpn1_rok0は、「韓国人が嫌いなのではない、馬鹿が嫌いなのだ」と語っていたという。

この発言に端的に示されているように、彼らの信条の中核を成していたのは実は歴史修正主義というアジェンダでもなければましてや嫌韓というアジェンダでもなく、むしろ彼らなりの主知主義への強い志向だったと見られる。裏返して言えばそれは、ある種の反知性主義への強い反感だった。つまり特定の主義主張が一部の知的権威と結び付くことによって絶対化され、それに反駁したり反証したりすることができなくなってしまっていることへの反感だ。

彼らの場合、そうした主義主張に当たるものはリベラル市民主義という理念であり、知的権威に当たるものは東京大学やソウル大学というアカデミズム、および従軍慰安婦問題などに関連し、朝日新聞を始めとするマスメディアだったと見られる。それらが結託することによって形作られている「絶対の正義」の支配のもと、有無を言わせないような雰囲気の中で納得させられてしまうことを彼らはよしとしなかったのだろう。

そのため過誤を過誤として糾弾し、そうした主義主張を覆すともに知的権威を貶めてやろうという野心から、彼らは彼らなりの主知主義を発展させていく。そこに発動されたのがバファリン作戦だった。したがってそれは歴史修正主義や嫌韓というアジェンダの発現だったというよりも、むしろ反リベラル市民や反マスメディアというアジェンダの表現だったと見るべきだろう。いいかえればそれはバックラッシュ保守クラスタの問題意識を受け継いだものだった以上に、むしろサブカル保守クラスタの思想を色濃く受け継いだものだった。その原点にあったのはサブカル保守クラスタに固有の強烈な反権威主義の精神、それも2ちゃんねる文化を経由して形作られてきた屈折したそれだった。

なお、そこでは反知性主義対主知主義という構図の位置付けが、通念的な理解とは反転したものになっていたことに注意しておく必要があるだろう。のちに右派的な言説はその野蛮さや蒙昧さのゆえに反知性主義の側に位置付けられ、一方でそれに対抗しようとするリベラル派の言説が主知主義の側に位置付けられることになる。しかしこの時期、彼らの中ではむしろリベラル派の言説が反知性主義の側に位置付けられ、それに対抗しようとする右派的な言説が主知主義の側に位置付けられていた。李の議論やそれに連帯しようとするリベラル側の議論こそが彼らからすれば、「実証性や客観性を軽視もしくは無視して、自分が欲するように世界を理解する態度」の現れとして捉えられていたわけだ。