インクルーシブ・メディア Encouraging Inclusivity in Media -メディアによる包摂と排除-

ノート|06

嫌韓ヘイトスピーチの始原に 包摂と排除の論理をめぐるポリティクスとパラドクス[1]

伊藤 昌亮

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はじめに

昨今、社会的包摂に向けたさまざまな取り組みが見られるようになってきているが、しかしその一方で、逆に社会的排除への圧力がさまざまな局面で目につくようになっている。とりわけネットの普及とともに差別的な言説が抑制を失い、集団的で匿名的な言語的暴力となって各所で猛威を振るっている。そうした現象の最たるものが在日コリアンを対象とするヘイトスピーチ、いわゆる嫌韓ヘイトスピーチだろう。07年1月に設立された団体「在日特権を許さない市民の会(在特会)」などによるものだ。

その主宰者の桜井誠は02年ごろから当時の翻訳掲示板サイトなどで活動し、もっぱらネット上で勇名を馳せてきた人物だったが、ゼロ年代後半から街頭に立ち、過激な言動を繰り広げるようになった。09年12月の京都朝鮮学校襲撃事件を始め、さまざまな事件を巻き起こしながら彼らはその「悪名」を轟かせていく。

その後、10年代前半になると「レイシストをしばき隊」によるものなど、いわゆるカウンター運動が組織され、彼らの暴走にも一定の歯止めがかけられるようになったため、猛烈なヘイトスピーチが街頭でまき散らかされるような機会は減ったものの、しかしネットの中では現在もなお同様の言説が再生産され続けている。

そうした勢力、その野蛮で蒙昧な振る舞いに対してわれわれはどう向き合えばよいのだろうか。そのための一つの方法はそれを真正面から叩くことだろう。カウンター運動はそうすることによって一定の成果を上げてきた。しかし同時にもう一つの方法として、そうした存在がどこから生まれてきたのか、なぜ生まれなければならなかったのかをできる限り丁寧に、彼らなりのロジックに寄り添いながら理解してみようとすることもまた必要なのではないだろうか。

本論文では後者の方法のための一つの試みとして、桜井を輩出することになった当時の翻訳掲示板サイトの状況に着目し、そこがどのような場だったのか、そこで何が行われていたのかを明らかにするとともに、それが当時のネット文化の動向、とりわけ2ちゃんねる文化の右傾化にどのような影響を与えたのかについて考えてみたい。そこから浮かび上がってくるのは、包摂と排除という論理をめぐる複雑なポリティクス、そしてそのパラドクスという様相だろう。

なお、以下ではいわゆるネット右翼の運動を構成するものとして、特に二つの「クラスタ」を想定している。89年に創刊された雑誌『SAPIO』(小学館)や、95年からそこで連載が開始された小林よしのりのマンガ「新ゴーマニズム宣言」、さらにそのファンによって97年に立ち上げられたサイト「日本ちゃちゃちゃ倶楽部(日本茶掲示板)」や、その流れを受け継いで99年に立ち上げられたサイト「2ちゃんねる」などを舞台に、主として若い世代のサブカルチャーの中で形作られてきた「サブカル保守クラスタ」と、93年に自民党国会議員によって立ち上げられた団体「歴史・検討委員会」や、94年に藤岡信勝によって立ち上げられた団体「自由主義史観研究会」、さらにそれらの流れを受け継いでいずれも97年に立ち上げられた団体「日本の前途と歴史教育を考える若手議員の会(教科書議連)」「新しい歴史教科書をつくる会」「日本会議」などを舞台に、保守派の政治家や言論人のイデオロギーを軸に形作られてきた「バックラッシュ保守クラスタ」だ。

また、同様にネット右翼の言説を構成するものとして、特に四つの「アジェンダ」を想定している。嫌韓、反リベラル市民、歴史修正主義、反マスメディアというものだ。これらの詳細については拙著『ネット右翼とは何だったのか』(2018年刊行予定・以下「前掲書」と記す)を参照されたい。

反知性主義の構造転換

ゼロ年代半前半を通じて2ちゃんねる文化は徐々に右傾化の傾向を強めていくが、しかしそうした動きは元来、当時の2ちゃんねらーが右派的な言説を直接的に受け入れたことから始められたものだったわけではない。前掲書でも見たように初期の2ちゃんねるでは、直接的に政治的な議論に対する抑止力、というよりもむしろ拒否反応が強く示されるのが常だった。左右いずれのイデオロギーからも距離を置き、「決してのめり込むことはしないで、観察し続ける」(大月隆寛)というスタンスが広く共有されていたためだ。

しかし一方で、彼らの一部が際限なくのめり込んでしまいがちな議論もあった。その一つが歴史談義だった。ここでサブカル保守クラスタの運動で強く志向されていたサブカルチャー、戦闘サブカルチャーというジャンルを思い出してみよう。物語を歴史として捉えようとする「歴史的物語観」のアプローチに基づき、そこでは物語消費としての歴史探索が熱心に行われるのが常だった。そうした歴史志向の強さから、歴史を物語として捉えようとする「物語的歴史観」のアプローチとの相同性が生じ、歴史修正主義というアジェンダに彼らが強く惹き付けられるに至ったことは前掲書でも見たとおりだ。

そうした動きが2ちゃんねるでも起きる。その端緒となったのは「ぢぢ」と名乗る論者が登場したことだった。00年5月13日、石原慎太郎東京都知事の三国人発言が世上を騒がせる中、ハングル板には「使ってはいけない差別語 三国人」というスレッドが立てられた。この語の由来などをめぐってさまざまな議論が繰り広げられる中で28日、ぢぢが登場する。以後、ぢぢは独特の老人言葉を用いて若い世代の2ちゃんねらーの疑問に答えながら、日韓間の近現代史について講釈を繰り広げていく。そのやりとりは大きな人気を呼び、さまざまな質問がそこに寄せられた。その後、6月23日には「ぢぢさまの『ちょっとだけ昔話』スレッド」というスレッドが立てられ、その再登場が呼びかけられると、24日にはぢぢが再登場する。さらに「[質問]戦前の在朝鮮、在台湾の国民の権利」「☆☆洪思翊日本軍中将☆☆」など、より専門的な内容のスレッドも立てられていく。

そうした動きを受けて6月29日には、これらのスレッドでのぢぢの発言をもとに「大日本史番外編朝鮮の巻」というサイトが立ち上げられた。日韓間の歴史認識問題に関わる膨大な資料が付されたこのサイトでは、「強制連行・就職差別・指紋押捺・最近では三国人の呼称などで大マスコミが反日左翼のフィルターを通してこれらを報道してきたため我々一般人は日本側に一方的に非があるように思い込まされてきましたが、歴史の語り部により反日左翼や在日の欺瞞が明らかになってきます」と謳われていた。

こうしてぢぢの登場をきっかけに、2ちゃんねらーによる歴史探索の営みが特にハングル板を舞台に本格的に開始される。サブカル保守クラスタの歴史志向は、ここでもまた歴史修正主義というアジェンダに強く結び付けられていくことになる。

その後、2ちゃんねる文化の右傾化が進行していき、特に10年代以降、そこから溢れ出した過激なヘイトスピーチが大きな社会問題として取り沙汰されるようになると、ネット右翼とされる人々の態度を指して「反知性主義」という語が用いられるようになる。とりわけ「在日特権を許さない市民の会」(在特会)を始めとする「行動する保守」の運動により、「在日特権」という「虚構」(野間易通)に基づく言説がまき散らされ、明確な根拠もないまま差別的な言動が繰り返される中、そうした態度の野蛮さや蒙昧さを指して用いられたのがこの語だった。佐藤優によればそれは、「実証性や客観性を軽視もしくは無視して、自分が欲するように世界を理解する態度」を意味するものだとされた。

しかし2ちゃんねる文化の右傾化は元来、そうした反知性主義的な傾向、すなわち知からの退却という動きからもたらされたものだったわけではない。むしろ彼らなりの知への希求、とりわけ歴史探索という知的実践を通じてもたらされたものだった。彼らは知性そのものに反対していたわけでは決してなく、「実証性や客観性」を軽視したり無視したりしていたわけでもない。それどころかむしろ彼らなりの知への希求を通じて「実証性や客観性」を強く追い求めていた。彼らの立場からすれば、「大マスコミが反日左翼のフィルターを通して」伝えている事実こそがむしろ「実証性や客観性」を欠くものだったわけだ。

さらに言えば2ちゃんねる文化の中には元来、反知性主義的な傾向とは正反対の、むしろ主知主義的な志向が強く埋め込まれていたと見ることもできる。左右いずれのイデオロギーからも距離を置き、「決してのめり込むことはしないで、観察し続ける」というスタンスはその一つの現れだったのだろうし、さらにそこでは「ソースはどこだ?」という常套句が用いられ、常に情報の出所を確かめようとする「ソース至上主義」の態度が徹底されていた。彼らのそうした姿勢からは、むしろ「実証性や客観性」を彼らがいかに重視していたかが窺い知れるだろう。

アメリカの政治学者のホフスタッターによれば反知性主義とは本来、知性そのものに反対する立場を意味するものではない。ある種の権威と化してしまっている知のあり方に異議を申し立てようとする立場を意味するものだ。むしろ反権威主義の一つの現れだと捉えることもできるだろう。森本あんりによればそれは本来、「知性そのものではなくそれに付随する『何か』への反対で、社会の不健全さよりもむしろ健全さを示す指標だった」という。

当時の2ちゃんねらーのスタンスの中に反知性主義的な傾向が含み込まれていたとすれば、それはむしろそうした意味でのものだったと見るべきだろう。つまり反権威主義的な主知主義という意味での反知性主義、ひねくれてはいるものの本質的に「健全」なそれだった。そうした傾向を単なる野蛮主義や蒙昧主義など、通念的な意味での反知性主義と混同すべきではないだろう。

また、彼らのそうした傾向をより確信犯的なものとして推し進めることになったのが反マスメディアというアジェンダだったと見られる。マスメディアによって提示される知のあり方に疑義を突き付けようとする立場から、彼らは独自の主知主義を、そして反権威主義的な主知主義という意味での反知性主義を育んでいく。

しかしその後、それは通念的な意味での反知性主義に徐々に「乗っ取られて」しまう。主知主義的な志向がそこから抜け落ちていき、単なる野蛮主義や蒙昧主義としての性格がそこに色濃く立ち現れてくる。そこにもたらされたのが上記のような状況だった。その結果、反知性主義という概念そのものが構造転換を被るに至る。以下、その経緯を見ていこう。